留岡幸助と自立支援 藤井常文

2022年9月15日初版第1刷発行

 

目次

留岡幸助とわたし

はじめに 児童福祉の開拓者 藤井常文

はげしくゆれ動いた時代/貧しい家庭の子どもたち/生涯をかけたしごと/自立支援と社会的養護の手本

1 学問への望みとキリスト教 0歳〜21歳

差別体験/キリスト教にであう/赤木蘇平先生のもとで/洗礼を受ける/せっかんされても/学問への望み

同志社英学校から教会牧師へ 21歳〜27歳

社会の底辺へのこころざし/北国へのさそい

3 監獄の教誨師として 27歳〜30歳

赤い獄衣と鎖/道内一巡の旅/土まんじゅう/個人面接/アメリカ留学の意志を伝え る

アメリカ留学と開校の準備 30歳〜32歳

監獄での学びと労働/勉学と視察の日々

5 家庭学校の開校 32歳〜48歳

貧乏ぐらし/支援の輪/妻・夏子の死を乗りこえて/開校/寄付金集めに苦労する/救い、みちびき、教え、愛す/よく働き、よく食べ、よくねむる/授業と実業教育とベースボール

6 北海道に農場(分校)を開く 48歳〜64歳

払い下げ交渉と現地調査/ほったて小屋/開場式と開墾/大自然のなかでの教育と農村づくり

7 事業縮小と校長辞任 64歳〜69歳

身体のおとろえ/妻・菊子の死と校長辞任/昇天/わたしが残したもの

留岡幸助略年表

 

・小学校時代の担任二宮邦次郎先生に影響を受け、新しい自由民権の思想に触れ、神様の前では士族の魂も商人の魂も同じ値打ちがあるとの教えを聞いて、幸助は心ひかれた。

キリスト教の洗礼を受け、同志社英学校に学び、京都の丹波第一キリスト教会の牧師として赴任した。

教誨師の推薦を受け、北海道の空知監獄で教誨師となる。新渡戸稲造を訪ね、日本の監獄が欧米に比べて遅れていることを教えられ、実地に学ぶことを勧められる。

アメリカ留学を決意し、マサチューセッツ州で州立青少年監獄を視察する。善良な国民として育成し社会に出して自立させることを目標にしていること、夜間学校があることを知り驚愕する。エルマイラ感化監獄も視察し、文献・資料を読み漁って、2年間に750通の手紙を発信した。

・帰国して家庭学校を開校したが寄付金集めに相当苦労した。北海道で農場(分校)を開くためには1億円もの資金が必要とされたが、苦労を重ねてスタートさせた。ただ1000人規模の理想的な農村と寄付金に頼らない経営を夢描いていたが、4年経っても350人、生徒20人、教師とその家族20人の厳しい状態が続く。

脳梗塞で倒れると四男清男が分校の教頭として赴任してくれた。第二代の校長は牧野寅次が就任した。後に同志社大学総長になった人物である。牧野は就任時に「家庭学校にとって、もっとも大きな犠牲者は留岡前校長その人である。かれの血と生命とを打ちこんだ家庭学校は、どこまで活やくさせなければならない。留校長がになわれていたことは、わが家庭学校の大きな誇りであった。その誇りをいつまでも継続させること、家庭学校としての理想は、ここにあることを忘れてはなるまい」と語った。幸助は70歳で亡くなった。

・幸助は東京家庭学校(後の児童養護施設)、北海道家庭学校(後の児童自立支援施設)を残した。また捨てるべき人間は一人もいないという信念を持ち、一人を活かすこと、一人を育てることに取り組んだ一生だった。

 

1934年没、なので、今から90年程前に亡くなった方だ。児童福祉の基礎を作った社会事業家である。社会事業家として渋沢栄一の名は有名だが、同時代にこういう人もいたということを学べて良かった。