一茶 藤沢周平

2009年4月10日新装版第1刷 2009年9月25日第2刷

 

裏表紙「生涯、二万に及ぶ発句。稀代の俳諧師小林一茶。その素朴な作風とは裏腹に、貧しさの中をしたたかに生き抜いた男。遺産横領人の汚名を残し、晩年に娶った若妻と荒淫ともいえる夜を過ごした老人でもあった。俳聖か、風狂か、俗事にたけた世間師か。底辺を生きた俳人の複雑な貌を描き出す傑作伝記小説。解説・藤田昌司

 

信濃国柏原の農家に生まれた弥太郎は、生母と死別し継母に冷遇されて15歳で江戸に奉公に出る。二六庵竹阿の死を聞いた直後、弥太郎は葛飾派の頭領其日庵溝口素丸に入門し、に六庵の後継者を自称しながら俳諧師として次第に頭角を現していく。田舎に帰ると母を除いて弥太郎の出世を喜んだが、義母だけは胡散臭い暮らしをしていることを見抜いた。それでも無能無才にしてこのひと筋につながると俳諧の世界に身を置きつづけた。弥太郎は一茶と名乗り、西国をめぐり歩いた。西国から帰ると、江戸は雪中庵大島蓼太、春秋庵加舎白雄が俳壇を二分しており、白雄の一門を率いる道彦とは大きく水をあけられていた。道彦と対面した時、一茶は道彦から才能は認められたものの、長旅でせっかくの才能を無駄に捨てたようなものだと言われた。43歳になって一茶は、成美から、貧乏句ばかりでなく、奇妙な変わりようが見える、地声が聞こえてくるようになった、このまま独自の句境がひらけるのか、下手すると俗に堕ちて終わるのか、わからないが、と言われる。親友だった露光が道端で行倒れのようにして亡くなったこともあり、一茶は田舎に帰った。父親から弟と財産を半分ずつせよとの遺言を書いてもらった。一茶は何の貢献もしていないから、弟や継母は納得しないが、一茶は策を弄して、最終的に田舎の財産を半分ずつにすることを了解させる書類を弟に作成させることに成功した。成美の店で多額のお金が紛失する事件が発生した。その時店にいた全員が疑われたが、店の留守番をしていた一茶も当然疑われ、成美との関係もギクシャクし出した。格式に縛られた葛飾派から一茶は破門された。一人立ちしてからは葛飾派に何の魅力も感じていなかった。一茶は田舎に帰ることに決めた。50歳を超えた一茶は財産分けを実行するように弟に求め、この10年間弟が独り占めにした分30両を精算しろと迫った。最終的に30両を10両少々で妥協したが、ほぼ一茶の言い分が通る和解となった。一茶は句を次々と作り成美に送った。成美は真似できない句風は認めるが、俳諧には認められぬと釘を刺して添削した。28歳という若い嫁菊を紹介され結婚した。村人から聞かされた話で嫉妬心を抱いた一茶がつい口走った言葉で夫婦喧嘩となり、菊は実家に帰った。一茶は菊を呼び戻しに行った。昨夜は5つも交わった自分が誇らしかった。一茶は成美のような俳句詠みがいなくなり、芋ばかりの俳諧が幅を利かせているのが悔しかった。こどもを授かったが疱瘡で死んでしまった。菊も重病で死んだ。人に預けた最後の子どもだった金三郎も亡くなった。62歳になった一茶が38歳の雪を嫁にもらったが、寝小便を繰り返すようになっていた一茶を置いて雪は2月余りで実家に戻った。3度目の妻やををもらった。32歳だった。気立ての良い嫁だった。やをを相手に一茶は“森羅万象みな句にしてやった。馬から蚤虱、そこらを走りまわっているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。その眼で見れば蚤も風流、蚊も風流…”と語った。享年65歳。

 

これを読むと、

やせ蛙負けるな一茶これにあり

は、一茶が自分を鼓舞するために詠ったように思う。

 

やれ打つな 蝿が手を擦る 足を擦る

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る

など、この本を読んで、改めてこれらの俳句の良さをしみじみと味わうのもよし。