中島望 稲村の火の男 浜口儀兵衛

2022年6月28日第1刷発行

 

ヤマサ醤油の七代目当主の浜口儀兵衛。故郷を襲った安政南海地震津波の際、稲村に火を放ち、海の近くから高台に誘導して人々を救った。

 

2歳の時、父と死に別れ、祖父に育てられた。祖父から浜口家の家憲を教わる。「たとえ主人であっても、子どものころから遊んでばかりいてはいけない。自分から困難に立ち向かえるように、精神をやしない、人をひきいるために必要なことを身につけるようにしなさい」「家がお金持ちでも、着物や食べものでぜいたくをしてはならない」「主人の家族から使用人まで、みんな同じ食事をすること」「主人でも使用人と同じように心がけなさい」。

当主であっても、丁稚として修業をし、剣術や槍、柔術といった武芸の練習にも打ち込み、勝海舟と出会って、故郷で教育と自衛の組織を作ることを目標にした。佐久間象山からも砲術を学んだ。奇兵隊より10年先駆けて広村崇義団を発足させ、広村稽古場を設けて教育にも力を入れた。運命の日、冒頭で書いた通りの大活躍だった。

津波が襲った後の儀兵衛の行動も素晴らしい。村を復旧するために私財をなげうち、ヤマサ醤油の番頭たちにも協力を得て巨大な堤防を構築した。しかも村の人々がその工事に協力して給金まで支払った。被害者にはお金やものを与えるだけではダメで、自ら働き、誇りを取り戻すことが必要だと考えたからだった。地震のわずか3か月後からスタートしたというのだから驚きである。余りの巨額な支援だったためヤマサ醤油の倒産の危機も招いたが、結局、銚子の店では例年の10.88倍の売上をあげた。堤防は高さ5メートル、長さ666メートル、土台部分の幅は20メートル、上の幅が2メートルの堂々たるものだった。そして堤防の外側に松の木を千本、堤防の上や内側にハゼの木を百本植えた。本格的な防波堤としては世界で初めてと言われる。コレラが流行り、医学のために多額の寄付をして西洋医学所の存続にも尽力した。後に医学所と名前を変え、これが東京大学医学部の前身となった。咸臨丸の艦長になった勝が紀州にやってきて再会する。アメリカ行きに誘われたが、国内でやるべき仕事が山積み状態だった儀兵衛は断腸の思いで断った。広村稽古場は耐久社と名前が付けられ、耐久中学校となる。儀兵衛は当主を譲ると梧陵と名乗り県議会議会の初代議長を務めた。65歳で政治の仕事を全て辞めアメリカに行くが、アメリカで66歳で没する。小泉八雲が『生ける神』という短編で儀兵衛を紹介した。

 

おわりに

2015年国連総会で安政南海地震が起きた11月5日は世界津波の日とする決議が満場一致で採択され、政府は浜口梧陵国際賞を創設。

 

恥ずかしながら、ヤマサ醤油の当主の浜口儀兵衛さんが巨大地震の際に命がけで人々を救い、なおかつ、その後も私財をなげうって巨大な堤防を作ったということを知らなかった。感動の一冊。