宴のあと 三島由紀夫

昭和44年7月20日発行 昭和57年6月25日25刷

 

裏表紙「プライヴァシー裁判であまりにも有名になりながら、その芸術的価値については海外で最初に認められた小説。都知事候補野口雄賢と彼を支えた女性福沢かづの恋愛と政治の葛藤を描くことにより、一つの宴が終ったことの漠たる巨大な空白を象徴的に表現する。著者にとって、社会的現実を直接文学科した最初の試みであり、日本の非政治的風土を正確に観察した完成度の高い作品である。」

 

小石川の高台にある「雪後庵」。三千坪に及ぶ小堀遠州流の名園、京都の名刹や奈良の古い寺から移された中雀門、玄関、客殿は、いずれも戦災を免れた。福沢かづは実業家の茶人から譲り受け、名高い料理屋となった。色恋ぬきで保守党の大物永山元亀も応援してくれた。

ある時、大使のクラス会が行われた。誰しも赴任先での過去の栄光と自慢話を披露するばかりで、元外務大臣で革新党の野口雄賢だけは異彩を放っていた。寡黙でストイックな野口はひとり過去を語らなかった。妻と病で死別した野口から二月堂の御水取りに誘われたかづは、野口の家を訪れて何かと世話を焼くようになった。奈良旅行は野口の友人らも同行し、野口はそこでかづを紹介した。雪後庵で友人らを招いてそこで結婚を発表すると、そのことが早速新聞に取り上げられた。朝刊を見た永山は電話をかけ、かづを事務所に呼び出した。保守党が贔屓にしてきた雪後庵の女将が革新党の野口と結婚するのはまずいというが、かづは、夫婦が別々の党へ票を入れて構わないと反論。双方は平行線のままでどちらも譲らなかったが、2人は結婚した。早くに両親を亡くしたかづにとって残った念願がかなった。野口は都知事選の出馬を要請された。野口が立候補を決心すると、かずは私財を投げ出してでも応援しようと決めた。アドバイザーの山崎素一に矢のような質問を繰り出し、電信のポスター30万枚で90万円、貼り賃120万円と聞かされた。かづは野口に内緒で応援した。週に5日は雪後庵にいたが、そのうち車で飛び回り、革新党もこれほど金もあり情熱もあり有力な同伴者を持ったことはなかった。割烹着のかづは民衆に愛された。相当な金額も注ぎ込み雪後庵も抵当に入れた。山崎はかづの大振りなやり方を敬服した。野口に相談なしにかづが進めた野口のポスターや天皇から和平の建白書を賜った経歴を乗せたことをきつく咎められた。雪後庵を閉鎖して家で暮らすことを命じされ、いうことが聞けないなら離縁すると言われた。雪後庵を手放す悲しみは言葉に尽くせなかったが、かづは野口を選んだ。7月下旬に都知事が辞職し、8月10日が投票日となった。抑揚のないしゃべり方をする野口は理想的な政策を並べるだけで盛り上がりに欠けた。かづは至る所で拍手で迎えられ、庶民の感覚に訴える熱情的な調子が大衆を引き付けた。演説会場に戸塚というかつてのかづの恋人が小冊子を持って現れた。三千部を百万でかづは買ったが、翌日から都内で数十万部が配られた。無差別爆弾が始まった。序盤は野口優位とのテレビもあったが、中盤から後半にかけて保守党側に巨額の金が堰を切ったように流れ出し、野口の敗けは明らかになった。かづの金は尽きかけていた。選挙は20万票近く大差をつけられて敗北した。野口は潔く政界から引退する旨表明し、かづと静かな年金生活を送るつもりだった。しかし、かづは雪後庵の再建という夢を持ち始め、総理大臣を何度も経験した実力者の沢村尹から奉加帳の筆頭に名を連ねさせることに成功した。野口はこれをかづの裏切りと判断し、雪後庵を取り返すことを諦めて建物と土地を売却するか、離縁し無縁仏として葬られるか迫ったが、かずの再建の決意は揺るがず、野口は離婚の手続を進めた(第18章 宴のあと)。かづは再び小石川の地に足を踏み入れた。四散した雇人たちは次々帰参し、庭を整えた。かづは再開を祝う宴の招待状を山﨑に送ると、山崎から返書が届いた。返書には野口とかづと自分はそれぞれ塒に還ったのだと綴られていた(第19章 宴の前)。

 

昭和36年3月、元外相の有田八郎が本書の内容がプライバシー侵害に当たるとして裁判を提起した。有田八郎は有名人。だが、この内容で訴えても勝てることはないだろう。十分、芸術作品として昇華しており、有田氏のプライバシーを暴いた作品だと受け止める人はいない。裁判の方が有名になってしまい、作品の持つ芸術性が忘れ去られているのは残念だ。