深重の海《上》 津本陽

1993年4月20日発行

 

第79回直木賞(1978年上半期)受賞作。多くの犠牲者を出した海難事故「背美流れ」を描く。紀伊半島南東部の大地では古式捕鯨が行われてきた。鯨が見つかると、勢子舟、網舟、持双舟が沖を目指して漕ぎ出す。網にかかった鯨に銛を打つ「刃刺」は世襲。「刺水主」はその見習い。鯨の鼻に綱を通す穴をあける「手形切り」は刺水主が刃刺になる前に行う洗礼だった。統括「沖合」は刃刺の筆頭でその指揮ですべてが決まる。

苦しい生活が続く中、巨大な背美鯨が現れた。仔鯨も一緒だった。言い伝えから近太夫は悪い予感がした。が、縄張りの指示を出した。近太夫の孫・孫才次は手形切りを決意していた。一番銛、二番銛が次々と立ち、早銛、差添銛、下屋銛等、50本近い銛が瞬くうちに投げ終わった。四刻余り時が過ぎた。舟は黒潮に深く乗り入れていた。肺の血液を抜いた後、孫才次は鼻切りを成功させ、背中の手形切りに取り掛かるや、死相を現した鯨が血潮の円柱を噴き上げ暴れ回った。間もなく往生の時が来る。舟が一艘だけ戻ってきた。一番潮に近く、二番潮にかかると大事になるため、食い扶持積んで救援に入った。鯨の周りで曳航の支度は整った。しかし鯨を捨てねばもはや沖に戻れず漂流する危険が出てきた。しかし誰も獲物を手放す気はなかった。高波が襲ってきた。そのうちに鯨を放せと絶叫する者が出てくる。ようやく鯨を放って陸に向かうことが決まった。しかし高潮で流され遭難した。救出のため、孫才次の父親弥太夫が支度をしたところに、新鹿港で沖合6,7里あたりで20艘ばかりの大地鯨舟を見たとの吉報が入った。救援に向かった舟は海に浮いた1艘と沖に戻った。漂流する舟の上で次々と事切れていき屍体を水葬する。潮が北に向かった。島が見えた。無人島かもしれないが島に向かった。神津島の砂浜に気絶したまま打上られた。近太夫は死んで帰ってきた。鯨方棟梁の和田覚吾は太地の通鯨が減るばかりで見限り蝦夷の漁を夢見た。鯨方船団を構成する漁夫は沖合いの指図で動き、棟梁の指図では動かない。弥太夫の協力を求めた。孫才次等、若者5名が戻ってきた。弥太夫は茫然と立ちすくんだ。