朱の丸御用船 吉村昭

2004年11月20日発行

 

難破し水船になった船が無人であれば積荷は村の所有とするのが習いだったが、天領から年貢として徴収した米を江戸に運ぶための御城米船は厳しい規則が課されており、新造してから7年以内の廻船であること、乗組み員は身元引受人のいる素性の正しい者であること、途中寄港する浦々で役人の点検を受けることが求められ、御城米船の積荷を奪い取れば苛酷な刑が科された。三重県志摩半島の大王崎・波切村の庄屋の久右衛門は難破した御城米船をどうするか迷った挙句、村人に素早く瀬取りすることを指示した。瀬取りした量は〆て597俵だった。俵、縄は全て焼き捨て、無銘の碇は宮山に隠し、刻印された碇は海に沈めた。

3か月前、島根(石見国)の浜田浦に碇泊中の廻船天神丸に積込みが行われた。船頭は宇和郡出身の定助。積荷の処理監督にあたる政兵衛が乗船し、類船が義務づけられていた。定助は類船の船頭らに、大勢が荷の密売をしているのに自分たちが正直にやっていることが愚かしくなった、御城米の密売をやりたいと持ち掛け、浦々で米の密売を実行した。そしてある程度嵐が予想されるタイミングで残った米俵を艀に載せ替えて難破偽装を実行し、全員に口止めした上で、天神丸も帆柱を切り倒し、船員全員髷を切り、艀に乗って岸に向かった。櫓を漕ぎ、燈明台の光を目指した。丘陵に辿り着き次々磯に上がった。定助らは安乗浦の庄屋清左衛門に向かう。庄屋は大庄屋に難破の事実を報告した。伊勢の有瀧役所の坂本孫四郎が定助らを調べた。定助は千俵余りの御城米が残っていたが海に沈んだと説明し、坂本は打ち捨てられた船とともに積み米の回収を命じた。定助らは四日市に入り、そこで手代の村木為作の取調べを受けた。定助らは大阪に連行され軟禁され処分待ちとなった。

信楽代官の浦触れが浦々村々に伝えられ、庄屋の久右衛門も目にしたが、届け出ることはなかった。ところが庄五郎なる者の書簡が届き、米の瀬取りについて確かな証拠があると認められていた。庄五郎は大王崎沖に押し流されたと判断し脅してきたようだった。知らないと返書を出した。再度庄五郎より書状が届いたので再び不正筋はないと返書し併せて真意を確かめたいので参られよとも書き添えた。村の網元の一人又右衛門が瀬取り後に村を出て戻っていないのが気がかりだった。又右衛門だけは村に恨みを持っていた。庄五郎の書状を持ち込んだ者たちは村の賽銭箱がことごとく壊されて賽銭が盗み取られた事件に不安が生じた。書状が四たびに渡って届いた。正月を迎える準備をしていた年末、信楽代官所役人西川宗右衛門が久右衛門を訪ね、御城米をかすめ取ったことを耳にした、包み隠さず申し述べよと迫った。久右衛門は添書の有無を確認すると西川に動揺が走った。役人を騙っただけであることが判明したが、事を荒立てることはせずに百両を渡すことでその場を収めた。

四日市陣屋の手代・村木為作は坂本が定助らを訊問した調書を取り寄せ、かすかな疑念を抱いた。艀に乗り安乗崎燈明台の光を目指して漕ぎ進んだというが、灯が認められたということはさほど遠くないはずで、そのような近海で気象の変化に見舞われたというがそれが予測できなかったのは本当か、碇泊は5日を超えるのは稀で14日間も的矢浦に留まった理由は何なのか、病人がいたという庄屋への弁明が坂本に告げていないのはなぜか。糾明がなされていないことに不満を持った村木は、坂本の面目を潰さないように、隠密裏に調べることにした。定助の的矢浦での常軌を逸した宴会は疑惑を持つに十分で、14日間の碇泊も、その間何艘も出帆している事実から更に潜行調査を進めた。類船の密売は250俵に及んだとの裏付けも集まり、類船だけでなく天神丸の御城米も密売された可能性が高いと考えた村木は調書を再び見返すと、定助船と類船が10日も碇泊し、しかも役人が書類の点検をしただけで船荷を点検していないことを掴み、このタイミングで定助船の御城米の密売の可能性があると推測した。串本浦、尾鷲浦、相賀浦、安乗浦、的矢浦でぞれぞれ定助船は御城米を売り払い、多額の金を掴んで派手な遊興の宴を張り、難波偽装したと判断した。上司に報告し、確証を掴むため、四日市を出立した。尾鷲浦、串本浦、相賀浦での密売の裏付けも取れ、安乗、的矢両浦の気象状況についても水船になるほど荒れていたとは思えぬという証言も得られ、処分待ちの大坂船割奉行には違法の疑いありとの書面を送り、数量確定のための調査をさらに続けた。類船の積荷は一俵残らず売られたが、定助船の密売量は尾鷲浦、串本浦、相賀浦で300俵程度だが、立入調査できぬ所では俵数を掴みかねた。打ち捨てられた定助船に残った積み量から密売量を把握するしかなかった。定助船が流れ着いた可能性のある一帯の情報収集することになり、村木は有瀧役所で坂本に会い、またそこで不確かながら波切村の噂を聞き付けた。調べてみると波切村沖で船に積まれた米俵が陸揚げされ村にかなりの米俵が隠匿されていることを聞き及んだ。波切村への立ち入り調査に藩の協力を取り付け、再度坂本とも会った。坂本は事実を村木から伝えられた後、失点を挽回すべく内偵を進め、又右衛門から瀬取りの事実を知った市郎右衛門が書状を波切村に送ったが、庄屋の久右衛門は否定し続けたため、坂本が又右衛門を直接追及して事実を認めさせた。これらを坂本から聞いた村木は村に乗り込むことを決めた。人員を補充した。村人たちは今度偽役人が来たら叩き殺すと意気込んでいた。そこに正規の役人が村に入ったため、偽役人と間違われて、村人に縛り上げられてしまった。死人も出てしまった。しかしそのうちに男達が代官の家来だと分かり、庄屋は急いで村に戻った。鳥羽藩家老・奉行・同心・足軽をしたがて総勢100名程が村に向かった。村人たちは口を割らないため次々と拷問にかけられた。村人345名が縄に繋がれて村を出ていき、調べの結果、瀬取りに加わった者は270名、米は596俵であることが判明した。これにより定助、次三郎を始め11名が投獄された。密売で得た金の隠し所も判明し押収された。瀬取りを犯した者は総勢343名が収容され、足軽中村市郎右衛門を死に至らしめた暴行事件に関わった者は重視され、3名が獄門、6名が死罪、2名が遠島、13名が追放、12名が軽追放の申渡しを受けた。定助は獄内で斬首され2夜3日晒す獄門の刑に処せられ、他は遠島となった。拷問により衰弱死した者も数多くいた。筆者あとがきによると、弥吉の存在はフィクションらしい。弥吉が出てくるところだけ少し救われた気になる。

1830年の実際の騒動がベースになっている、吉村昭さんらしい作品です。