遠き落日《四》 渡辺淳一

2007年5月20日発行

 

第15章 ニューヨーク(2)

 ニューヨークに戻ると腸チフスで2カ月余入院した。退院したが腸チフスを再発させ再入院。退院すると今度は虫垂炎。42歳の厄年だった。

 

第16章 黄熱

 研究に行き詰まりを見せていた英世は、アメリカ全体の社会問題になっていた黄熱に取り組んだ。エクアドルで患者の血液と組織から病原体を思われる微生物を発見し培養し増やした。病原体はスピロヘータ―の一種であると確信し、黄熱の征服は時間の問題と思えたが、学者としての失敗の第一歩を踏み出していた。いかに英世といえども3か月で発見というのは早すぎた。この時、故郷ではシカが風邪で寝込み肺炎を起こし危篤となり、英世がニューヨークに戻ると、シカの訃報を聞いた。黄熱病とワイル氏病は非常に似ていた。血清中に認められるスピロヘータも形も極めて類似している。英世は調査の結果、両者は別物と断定して黄熱の論文発表に踏み切る。黄熱の恐怖から救った学者のような扱いをされたが、密かに疑問を抱いたグループは反論の準備を進めていた。

 

第17章 中南米

 英世はメキシコでも黄熱の病原体を発見した。ペルーでも同じスピロヘーターを見出し、英世のワクチンのおかげで現地人の多くが黄熱にかからずに済んだ。ニューヨークに戻ると、最大のスポンサーであった血脇守之助がアメリカにやってきた。誠心誠意歓迎した。ジャマイカで世界の熱帯病会議で英世が発表した黄熱に関する論文は賛否両論が出た。ブラジルでも同じ方法で黄熱病の病原体を見つけ、ニューヨークに戻った。

 

第18章 ニューヨーク(3)

 ニューヨークに戻ると、鞭毛虫の感染症の研究に乗り出し、ペルーのオロヤ熱の研究も手掛けた。英世はヴェルーガ病もオロヤ病も共に同じものである、発症の違いは罹病者の抵抗力と体質によるものであり、毒性の強弱によって、ヴェルーガ、オロヤ両方の反応を見ることができる、と結論付け、ハーバード学派が別の病気と誤った理由を克明に説明した。

 

第19章 アフリカ

 アフリカで発生した黄熱病を研究するためにはアフリカに行く必要があると決断した英世は50歳を超えており、妻や周囲は反対するが、自分で患者に会いその腕から血を採りその新鮮な血で研究をしたいとの思いに突き動かされてアフリカ行きを決行した。

 アクラに到着したが患者がいないことに苛立ちを覚え、ラゴスの研究所から患者の血清を取り寄せて仕事を開始した。若手の医師から英世は研究が失敗するだろうと言われたことに奮発してここでもいつ起きていつ寝るのか周囲から質問されるほど研究に没頭した。英世は黒人や現地人に気前よくチップを与えた。多くの者が英世の名を知った。死後50年を経ても西アフリカの地にノグチの名は語り継がれている。

 お腹を壊した英世は黄熱病に罹ったのか。ワクチンを打ってきたから心配ないと思う反面、間違っていたらワクチンは効かない。典型的な症状を現わさなかったため黄熱病だったか否か不明のまま10日で退院した。アフリカでの研究に限界を感じアメリカに帰国して設備が整った環境でじっくり調べ直すことを考え始め、ラゴスの研究所に立ち寄り、再びアクラに戻った後にニューヨークに戻る予定にした。アクラに戻る船が出発した日の夜、激しい悪寒と嘔吐に見舞われた。

 

終章 アクラに死す

黄熱病に罹患した英世は、最も黄熱病に詳しい自分がどうして罹ったのかと思う。完緩期に入ったことで黄熱病に罹ったことは確定的だった。最後に「なにが、なんだか、わからない・・・」との言葉を残して52歳で亡くなった。後に黄熱病の病原体は、ウォルター・リードらが予測したとおり、ウィールスであることが確認され、英世が発見した病原体は誤りでワクチンも実効がないことも明確になった。当時の顕微鏡でこれを見ることは不可能であり、野口の敗北は個人の失敗というより学問の発展途上における必要やむをえざる誤りでもあった。英世は異国の墓地の中で永眠した。ロックフェラー財団医学部図書館の正面玄関の左右にはロックフェラー1世の胸像と向かい合って野口英世の胸像が並んでいる。

1979年吉川英治文学賞受賞。

 

ハンディを克服して医師国家試験に合格するも、東大・北里なにするものぞとのコンプレックスから馬車馬のように走り続け、世界のトップ研究者として名を残した野口英世。他面、借金大魔王のようなハチャメチャぶりや、親友と言えるような人がいない孤独な人生でもあった。立志伝のような綺麗なまとめ方でないところが面白みをとても感じた。