女の人権宣言 フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯 オリヴィエ・ブラン 辻村みよ子・訳

1995年12月18日第1刷発行

 

表紙裏「フランス革命の人権宣言の『人』は『男』であって、女の人権が含まれていなかった。これを最初に批判し『女性の権利宣言』を書いたのがグージュ(1748~93)である。劇作家でもあり、美しく才気に恵まれたグージュだったが、最期は反革命の汚名をきせられ、ギロチンの露と消えた。その波乱の生涯をここに初めて明らかにする」

 

訳者解説「オランプ・ドゥ・グージュ ー女性の権利宣言を書き、ギロチンの露と消えた グージュの波瀾の生涯とフェミニズムの夜明けー」によると、「フランスの1789年人権宣言(「人および市民の権利宣言」)は、すべての人間の普遍的な「人権」を確立した近代人権宣言として有名である。ところが、この人権宣言は、「人=男性」の権利宣言にすぎず、実際には女性と女性市民の権利は排除されていた。これを最初に批判して「女性および女性市民の権利宣言」(1791年7月に発表)を書いたのが、オランプ・ドゥ・グージュであり、近年のフランス革命史研究、女性史研究やフェミニズム研究の進展によって、彼女への関心が一層高まっている」、「彼女は、議会への要求やパンフレットによる発言を繰り返していたが、政治的には比較的穏健な立場にあり、ルイ16世を擁護したり、ジロンド派に近い立場からマラーやロベスピエールなどのジャコバン派を非難した。1793年夏には、『三つの投票箱』というビラをしたためて、単一・不可分の共和制、連邦制、もしくは君主制の3つの統治形態の中から、国民投票で選択することを提案した。これが、王政の復活を煽動した反革命容疑者を処罰するための1793年3月29日法に触れるとして、同年7月20日に逮捕された。ついで、11月2日の革命裁判所での裁判の結果、『人民主権を侵害する著作』のかどで死刑宣告されて、翌3日に処刑されてしまった」、その(女性の権利宣言)構成は「(a)王妃へ」と題するマリー=アントワネット宛の誓願文、「(b)女性の諸権利」と題する文書が続く(前書き、本文、後書き)。「(c)男女の社会契約の形式」と題する文書となっている。本文は前文と17条からなる。人権宣言にならった配列・構成であるが、4つのタイプに分類できる(①人権宣言の表現とほとんど変わらない条文、②主語を「人」「市民」から「女性および男性」ないし「女性市民と男性市民」に変更した条文、③女性の権利としての保障を強調したり加筆・変更している条文、④性別を超えた一般的問題について「人権宣言」の枠を超えたもの)。

 

序 非嫡出子として生まれたが、彼女は自らを自然児とみなし、それをバネとした。

第1章 幼年時代 私は、徳の高さと文学的才能のいずれにおいても著名な、ある人物の娘である。彼は人生でただ一つの過ちをおかした。それは、私を敵にまわしたことだ。『道徳的釈明』(1792年)

第2章 妖艶な年月 ニンフの物腰、高貴な態度、魂を感動させ感覚を魅了する声の響き、黒い瞳、百合と薔薇のような肌、真っ赤な唇、うっとりとさせる微笑み、自然な優美さ・・・。『寛大な男』(1786年)

第3章 国王の役者たち 私の作品が傑作だと信じることがばかばかしいと思わないように。『ニノン邸のモリエール』(1788年)

第4章 黒人奴隷制度 自然の摂理には何の関わりあいもなく、何もかも白人の利益優先がもたらした不正のせいだ・・・『黒人についての考察』(1788年)

 「自由」のおかげで力をつけた人間がこのように考えているだろうか? 何ということか! 植民地居住者の陰謀と芝居じみた横暴が、公共の利益や誰の目にも明らかな公正さより優位に立ち、自由の元年が、封建時代の野蛮さと無知のもとでさえ存在しなかったような不正によって、汚されてしまうのだろうか?『マダム・ドゥ・グージュのための覚え書き』(1790年)

第5章 愛国的作家 国家を救えるのは、ほとばしる熱意しかない。『緊急提言、別名=中傷者への返事』(1789年)

第6章 共和国の「巫女」 みずから決定することにまさる美しい大義はない。それは人民の大義である。『フランス人の精神』(1792年)

第7章 国王の首 残酷におびただしく流された容疑者の血が、永遠に革命を汚す。『無実の誇り』(1792年)

第8章 3つの投票箱 私は何もかも見通しました。私の死は避けられないと覚悟しています。『政治的遺言』(1793年)

第9章 ギロチンの刃 私は女です、私は死の恐怖に脅えています。私はあなた方の拷問をひどく恐れています、でも私には自白すべきことは何もありません。私が勇気を持てるのは、息子への愛情があるからこそです。自分の責務を果たすために死ぬことは、母親の愛情を、死後に長く残すことになるでしょう。『革命裁判所でのオランプ・ドゥ・グージュ』(1793年)

第10章 女性の権利 私たち女性が、徳においても勇気においても、男性にひけをとらないことを、男性たちに示そうではありませんか・・・。男性の無知、傲慢、不公平が、女性たちを長いあいだ隷属させてきましたが、今こそ、私たち女性が、恥ずべき無能さから脱する時が来たのです。 テロワーニュ・ドゥ・メリクール(1792年3月25日)

 私たち女性が、男性と同じように政治を司ることができることを、男性たちに証明してみせましょう。どのクラブでも私たちが優位に立ちましょう。私たちはしっかりとした目で、憲法に反することはすべて、とくに女性の権利を侵害することはすべて、告発していきましょう。そして、私の親愛なる夫で、私が忠節を尽くしているペール・ドゥシェンヌのような、太ったまぬけな男のからだよりも、一人の女の小指の中に、より多くの才気と活力が宿っていることを、男たちに教えてやりましょう。 メール・ドゥシェンヌ

第11章 遺児・ピエール・オブリィ 運命が、私の涙をぬぐうためにお前を生きながらえさせてくれるなら、…お前は、真の共和主義者として、母を迫害した者に対して、仕返しをしておくれ。『息子への手紙』(1793年)

 

 激しくも、鮮烈に、後世に名を残した、素晴らしい、信念の女性である。

 これまで余り関心が寄せられることがなかったようだが、埋もれていた偉人を掘り出した作者の労苦は大変なものだったと思う。パリ図書館で一連のグージュの作品のコピーをとって持ち帰り、1976年に翻訳と解説を「法律時報」(48巻1号)に発表したのが全文訳の最初らしい。

 巻末資料として、グージュの「女性および女性市民の権利宣言」と「人および市民の権利宣言」の条文対照表が掲載されており、とても見やすく理解し易いものとなっている。