昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷
①とうふ屋への驚き
②学生時代-“民間知事”を夢見る
③住友で、三年半“人間学”を勉強
④宮崎に帰る-三つの基本方針
⑤宮崎交通の誕生-事故撲滅と遊覧バス
⑥日向中央銀行の整理に努力
⑦“八紘一宇”の日向建国博覧会
⑧交通会社の統合と戦後の労働争議
⑨仏教精神で、諸事業に取り組む
⑩航空事業、観光事業、その他
⑪大地に絵を描く
・一高卒業後、大学2年で結婚し、大学3年で長男が生まれた。卒業後、住友総本店に入社して経理課調査係に配属され、3年半良い人間学を学んだ。宮崎に帰る時、明白な目標はなかったが、第一に私は地方で働く方で終始する、第二に旗を振る方でなく旗を見て実際に仕事をする側の方の仕事をする、第三に新しい仕事か行き詰まって人のやらぬ仕事だけを引き受けてやるという方針を立てた。一抹の寂しさが残ったので、手がける以上は日本一の日本の新しいモデルになることに生きがいを見出そうと思った。宮崎での最初の会社が資本金1万円の宮崎木材工芸株式会社だった。戦後、住友に株をかなり持ってもらっていたため連繋会社として制限会社に指定され解散になったのは惜しかった。基本方針第三の会社として代表なのが宮崎交通だった。バス事業を再開するに当たり、第一に事故対策を手掛け、修養会を催し、無事故手当の制度を創設した。産業文化その他を説明内容に入れ遊覧バスに乗ればその地方の全てがダイジェストとして一通りわかるというように遊覧バスを変え、新しい形式と生命を注ぎこむことで宮崎交通を躍進させた。行き詰まった仕事の代表は日向中央銀行の整理だった。破産銀行の整理は、閉店までの経過、閉店後の整理(預金者への支払を中心に)の二つだが、日向中央銀行の場合は宮崎県の経済界の新しい需要をどう処置するかという問題が絡んだ。そのため日向中央銀行を二つに分けて預金の半分とこれに見合う優良債権を土台として今の宮崎銀行を作り、残り半分の預金と資産はそのまま日向中央銀行に残し整理に当たるという案を立てたが、前例がない案なので絶対に困ると内務省から反対され、涙を飲んで原案を引っ込めた。整理の6年は最も苦しい6年だった。これを乗越えたのには「心配するな、工夫せよ」というお坊さんの教えがあったからだった。満州事変が北支事変に進展し宮崎交通も変革を余儀なくされ会社統合を図った。戦後は労働争議に直面した。大争議を経験したがこれのお陰で会社も組合も成長してその後の労使関係は円満に行った。毎年1回、修養会の日に全社員の無事故の誓いの式を行った。観光施設の整備にも取り組み、宮崎空港のターミナルビル、宮崎ゴルフ場の開発、宮崎観光ホテルの新築を頭に描き、実現した。私は考えれみれば、宮崎という大地をカンパスにして一枚の絵をかき続けてきた。(昭和47年より宮崎交通取締役相談役)