私の履歴書 市村清(理研光学社長) 日本経済新聞社 経済人5

昭和55年8月4日1版1刷 昭和58年10月24日1版8刷

 

①いたずらが過ぎて墓地に監禁される

②佐賀中学を中退して銀行に就職

③大学も中退して北京・上海へ

④留置場生活、拷問で知った不屈の精神

⑤保険外交員から理研感光紙の販売員

⑥再び大陸へ、満鉄へ必死の売り込み

⑦社員から総スカン、三か月サロン通い

⑧大河内独裁主義に反対して辞表出す

⑨「三愛」の経営、おしゃれで成功

⑩“市村産業団”が念願、三愛主義を貫く

 

・明治33年佐賀生まれ。佐賀中に合格したが、貧乏で5銭の飛行場観覧料が払えず学校を辞めた。銀行で事務見習いの仕事をし、本店勤務になった後、中央大学夜間に通った。共産主義に惹かれた時に姉崎正治の「法華経の行者・日蓮」に出会った。肺が侵されマラソンの抵抗療法で結核を治した。大東銀行を北京に設立する話があり、中央大学を3年途中で退き北京に赴任した。無実の罪で監獄に入れられ135日間拘束された。帰国後熊本で保険募集員として働いたが一件も契約が取れず夜逃げする相談を妻にすると、一件も取れずに逃げる前に一口取るよう励まされた。諦めずに誠意をもって取り組んだことが評価され、とんとん拍子に契約が出来た。理化学研究所の親族から感光紙の外交を勧められ。これを断ったが、しばらくすると業績が悪いので望めば譲ってもらえるかもしれないといわれて、値段交渉で合意に達したが、最後に保険募集員との契約はできないといわれて、売れないのは人の熱と努力が足りないからだ、仕事の熱意と努力では人に負けないつもりだが、とんだ見込み違いだと言いたいことを言った。すると、熱意を感じ取ってくれ、吉村商会に名前で仕事をして成績が上がれば改めて考慮すると約束してもらった。店主と従業員は一心同体だと思い、給料は他より優遇し食事も同じようにした。注文が増え店員も増え50人の大所帯となり、九州総代理店となり、朝鮮と満州の総代理店も貰った。満鉄をものにしようと必死で交渉し比較試験で勝ち取ったことで大河内正敏先生から本社の感光紙部長に招かれた。しかし本社に出向くと、悉く敵で氷の壁にぶつかった。暴れたところ独立の会社にして任せられ、36歳で理研感光紙株式会社として独立した。人の為に誠意を尽くしたことは必ず良い結果を生み、業態が広がり、3つの会社の社長、4つの専務、5つの平重役を兼ね理研の中心的存在になった。が大河内先生と対立し辞表を書いて辞めてしまった。間に辻恒彦君が入ってくれ、後に大河内先生から私の真意が伝わったらしく、再び3つの会社の社長になった。敗戦となり、戦後処理方針を検討するに際し、工業ではなくサービス業で行くことに決め、地の利を得るのに銀座四丁目が再び中心地になると確信し、店の名前を『三愛』にした。“人を愛し、国を愛し、勤めを愛する”という人道的なスローガンを掲げた。明治記念館を経営してみて、「もうける」と「もうかる」の違いを悟った。道にのっとってやるのが「もうかる」で無限だが、もうけるのには限度がある。三愛石油を通してでなければ羽田空港の飛行機は給油できない仕組みを作った。理研光学3千8百人、三愛千五百人、その他西銀座デパート、三愛石油など全部で約7千人の社員がいるが組合はない。三愛主義を徹頭徹尾貫いているからだ。世界に類例のない市村産業団を作り上げたい。(昭和43念12月16日死去)