大屋敦(日銀政策委員)私の履歴書 経済人7

昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

新門辰五郎の血もひく家系

開成中学から一高へ

逓信省に入り、二度の海外旅行

④住友で経営哲学を学ぶ

⑤硫安事業で苦労

⑥初の埋め立て地造成事業

⑦アルミニウム事業-言語に絶する技術者の努力

⑧日本のかくれた恩人のこと

原子力開発のお手伝い

⑩日本青年協会-中道を歩ませる目的

⑪精神力即健康を信じて

 

・祖父は大政奉還の奏上文を草案した人。父は大審院の判事だった。姉の孫が三島由紀夫尋常小学校2年の時、永井から大屋に変わった。開成中学後、一高の体格検査で不合格になり仙台二高で受験し、一高二部甲に入学した。東京帝大電気工学科卒業するまでの間、京阪電車会社で働き、卒業後逓信省電気局に奉職した。早大理工科で週1で教鞭もとった。8年後住友総本店に入社した。21年間の住友生活後、軽金属統制会長に就任。水力や窒素肥料に関わり、住友化学初代社長に就任した。アルミニウム事業は住友、軽金属統制会長として大いに関わった。正力松太郎大臣の肝入りでスタートした社団法人日本原子力産業会議の会長は菅礼之助さんで私は副会長の一人として今でも関係を続けている。財団法人日本青年協会では会長を引き受け、農村青年を対象に青年訓育に当たった。日本銀行の政策委員を務めて6年になる。東京ロータリークラブ会長を務めた。80歳に達した会員が11人いる。(昭和41年より住友ベークライト相談役。45年8月18日死去)