昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷
①勉強は“神童” 行儀は“悪童”
②少女にひかれて三高を選ぶ
③一城のあるじを志して三菱へ
④九死に一生―方城炭坑大爆発
⑤大夕張炭鉱長として渡道
⑥石炭化学の構想十年目に実現
⑦三菱油化の創立
⑧朝鮮から満州へ手をのばす
⑨石油化学事業に踏み切る
⑩理科教育の振興を念願
・明治17年5月21日山形県生まれ。鶴岡中学を卒業して三高に進み、東大採鉱冶金科に入った。卒業後、三菱合資会社の石炭部に入り、700人もの人が死んだ方城炭坑の大爆発事件に遭遇した。大夕張炭鉱長として北海道に渡り、イギリス・アメリカ・ドイツの炭坑を視察した。北海道から東京に戻り、常務取締役となる。三菱石油が誕生。日本タールが日本化成と社名を変更した後、三菱化成と名乗った。これは旭硝子の社長を兼務し、両者を合併して三菱化成とした。昭和21年8月追放となる。三菱化成は三菱レイヨン、旭硝子、三菱化成と三分割された。日本の開発可能な唯一の資源は頭脳である。国民の頭脳の結果によって生まれた新技術、新製品を企業化して国民生活を潤い、これを海外に伸ばしたい。石炭化学の一環として医薬品をやりたいと考え、武田化成を設立。昭和33年に石油化学協会が誕生し、推されて会長になる。合成ゴムやポリプロピレンの製造なども、社会のためになることに身を入れよとの父の遺言を実行したものだった。工業教育の振興、科学技術の振興は主張だけでなく実施されることを切望している。(昭和44年より46年まで三菱油化会長。52年4月2日死去)