昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①三年目にやっと中学入学
②一校、帝大時代
③小平浪平氏に見込まれる
④いきなり検査係主任
⑤ウ社に見習生で入る
⑥一介の電機職工として
⑦ウ社四十日間のスト
⑧父と兄弟で安川電機設立
⑨炭坑機械に努力
⑩不景気風―人員整理に涙す
⑪統制会の運営を阻む軍部
⑫ただ軍需を満たすのみ
⑬石炭庁の長官に就任
⑭炭労と渡り合う
⑮「玄洋社理事」で追放
⑯原子力研究所の理事長となる
⑰ストでかえって信頼をうく
⑱けんかは避けて通る哲学
・明治19年6月2日福岡県遠貨郡芦屋町生まれ。父安川敬一郎は九州の石炭のパイオニアだった。3回目の受験で修猷館に合格し、一高二部(工科)、東大電気工学を学んだ後、日立製作所の小平浪平さんから誘われて1年日立製作所の検査係で働いた。父が米国行きを手配して日立を辞めウエスチングハウスという電機製造会社に見習生として入り、途中で給料をもらって3か月ほど働いた。ストを機に同社を辞め、帰国して安川電機をスタート。小規模な工場ならその工場に適した品目を定めて力を注がないと未来がないと判断し、モーター専門工場に切り替えた。様々な人材を要請してきたので涙を飲んでやめてもらった。満州事変が突発し需要が伸びた。重要産業団体令が出来、電気機械統制会が作られ、日立の小平氏や東芝の山口社長が断ったため私が会長に指名された。安川電機を辞任して4年間会長を担当したが、軍が介在してきた。終戦後、統制会とは別に振興組織が必要となり、電機工業会の準備を進めていると、石炭庁の長官になってくれと頼まれ、大変な時勢の中で増産のために動いていたところに、かつて玄洋社の理事に名を連ねたことを忘れて経歴を書いて出したことで追放になった。しばらくして安川電機の会長に戻ったが、今度は日銀政策委員を引き受けると、再び会長を退いた。1年余りで委員を辞めた後、原子力研究所の理事長を引き受けた。原子力発電会社の社長になるのと同時に研究所の顧問になった。兼務が許されないので顧問に落ち着いた。この会社は採算が合うか、人材養成、自力でやるという意味があった。(昭和47年安川電機相談役、51年6月25日死去)