夏の花 原民喜

1991年4月10日発行

 

正三が本家に戻って来た。長兄順一は高須へ出かけた。次兄清二は本をパラパラめくっていた。順一が戻ってきた。清二は工場疎開が命じられた。正三は休みの日、妻の墓参りに出掛けた。警報は殆ど連夜出た。私は、花をもって妻の墓参りに向かった。翌々日、原子爆弾に襲われた。8月6日の朝、8時頃床を離れた。便所に入った羅突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。縁側に出ると、向こうから凄まじい勢いで妹が駆けつけて来た。「眼から血が出ている、早く洗いなさい。」と台所の流しに水が出ていることを教えてくれた。Kと私は崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除けながら進んで行った。みんな、はじめ自分の家だけ爆撃されたものと思い込んで、外に出てみると、何処も一様にやられているのに唖然とした。それに、地上の家屋は崩壊していながら、爆弾らしい穴があいていないのも不思議であった。竜巻が過ぎると、2番目の兄がやって来た。上流の方へ遡って行くと、言語に絶する人々の群を見た。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上がって、眼は糸のように細まり、唇は思い切り爛れ、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で横たわっていた。夜が明け、長兄と妹は家の焼跡の方へ廻り、東練兵場の方へ行こうとした。私は次兄の家の女中に附添って行列に加わっていたが、女中の顔は酷く膨れ上って、二十四時間あまり、狭苦しい場所で暮らした。夜明け前から念仏の声がしきりにしていた。誰かが絶えず死んで行った。女中は頻りに水をくれと訴えた。長兄が荷馬車を傭って戻って来た。馬車に乗ってここを引き上げた。馬車が泉邸入口の方へ来た時、次兄が甥の文彦の死体を見つけた。涙も乾きはてた遭遇だった。馬車は目抜の焼跡を一覧した。銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、人間的なものはすべて抹殺されていた。この印象をカタカナで描きなぐった。

 ギラギラノ破片ヤ 灰白色ノ燃エガラガ ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ

 アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム スベテアッタコトカ 

アリエタコトナノカ パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ テンプクシタ電車ノワキノ 馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ ブスブストケムル電線ノニオイ

馬車は八幡村に到着した。翌日から悲惨な生活が始まった。だんだん衰弱していった。火傷した女中の腕はひどく化膿し、蝿が群れて、とうとう蛆が湧くようになった。彼女は一ヶ月あまりの後、死んで行った。四五日目に、行方不明だった中学生の甥が帰って来た。この甥も一週間あまりすると頭髪が抜け出し、十二三日目に鼻血を出し、重態のまま持ちこたえた。村へ移った当初、私はまだ元気で病院へ連れて行ったり出歩いたりしていた。その日、放送の声は聴きとれなかったが、休戦という言葉は疑えなかった。夕方、八幡川の堤の方へ降りて行った。山脈は黄昏の色を吸収し、山の頂は日の光に射られてキラキラ輝いていた。大空は深い静謐を湛えていた。ふと、私は、あの原子爆弾の一撃からこの地上に墜落してきた人間のような気持がするのであった。私はひどい下痢に悩まされだした。妻の1周忌が近づき、広島に汽車で出掛けた。焼けた樹木は殆ど何の気であったか見分けはつかなかった。まだ蠅が猛威を振っていた。かすかに赤ん坊の泣き声をきいた。初々しい声であった。

 

作者の実体験に基づいていると思うと、読むのがしんどくなる。