きのね[柝の音]《一》 宮尾登美子

1998年4月20日発行

 

市川行徳の塩作りで貧乏の家に生まれた光乃は、小学校卒業後、劣等感を抱きながら実践実科女学校に通う。しかし母のさだがが胃癌で亡くなり、阿佐ヶ谷の叔母の家で世話になるが、卒業間近になっても自立しないため叔母から嫌味を言われ、上野の口入れ屋の紹介で、歌舞伎役者宗四郎の渋谷の家に運よく女中奉公に上がる。結核患者の衣類の洗濯係しか女が働けない時代で、覚悟を決めて面接に臨んだところ、新聞広告を打った日に以前口入れ屋で人を雇うのを頼み、その伝手で面接に来た光乃の幸運が重なり、しかも雪雄の結核はほぼ完治していたことから、洗濯係ではなくて女中として採用された(貝寄風かいよせ)。

女中の初日は忙しさの中でアッという間にすぎ、翌日は初日を向かえ、ただならぬ緊張感が漲っていた。宗四郎は九代目松川玄十郎の下で鍛えてもらい、不世出の弁慶役者といわれ36歳のとき日本最初の創作オペラ「露営の夢」に出演した。最初の妻麻代は三男二女をもうけたが、29歳で亡くなり、2度目の妻も3度目の妻も1,2年で亡くなったが、4番目の妻加代とは長く連れ添った。雪雄は結核治療のため。鎌倉の貸別荘(ここで圭子が身の世話をするためにやってきた)、逗子小坪のサナトリウムで療養し、4年後上京した(役者の家・小坪)。

雪雄と加代は折り合いが悪く、雪雄は赤坂山王下に移る。圭子が雪雄の子を出産した。産後の手伝いをするために光乃は圭子のいる赤羽橋に移る。その褒美に歌舞伎「矢の根」の三階席のチケットを貰い、初めて歌舞伎座の芝居小屋に入る。そこで光乃は、開演を告げる柝の音を生まれて初めて聞き、たとえ難い鋭い感動にしたたか打たれ、その場から動けなくなった。渋谷の家では想像もつかない舞台の上での雪雄の姿に魅了される。圭子の家に着くと、赤ん坊の着替えを縫い、おむつを替え、食事の用意をし、チリ紙を取ってくれと言われれば取ってやりと大忙し。夜に雪雄がやってきて「ご苦労さん」と優しく声を掛けられる。半月後、山王家に移る。圭子が鶴見で白木屋ののれんを出した店を始めると、女中であることを知っている数少ない光乃に絶対多言しないようきつく言われ、圭子は結婚するつもりでいることを知った。