きのね[柝の音]《四》 宮尾登美子

1998年4月20日発行

 

雪雄は光乃との結婚を考え始め、弟たちに鎌倉の横田黄邨の養女にした後に嫁に貰うことを考えていると相談すると、2人の弟たちは反対する。それでも雪雄は光乃に自分の考えを告げるが、光乃は2人の子供だけそうしてもらい、自分が入るのには家柄が違い過ぎると涙を流しながら辞退する。黄邨夫妻に相談したところ、夫人は宗四郎の下で躾けられたという方が世間への通りがよいと言い、雪雄は再考することに。結局、雪雄は2人の子供を認知する届を出すにとどめた。結局、結婚と2人の子供を披露すると世間がそれなりに騒ぎ出すが、人気が急落することもなく、発表の勇気を評価する声も高まった。役者をやめても結婚すると宣言。已む無く格式を重んじる歌舞伎界のため、当時の海老蔵後援会長の日本画前田青邨の養女として光乃は入籍し、その後結婚した。六円が逝き、勇雄も時々役をもらって舞台に出るようになる。11代玄十郎の襲名が近づく中、光乃は体調を崩し病院に行くと腎盂腎炎と診断され入院を勧められる。一旦は通院治療にしたが、雪雄も一緒に病院に行き、治療に専念するため光乃が入院する。雪雄が家で一人で寝ているとピストルを持つ強盗が家に入り金を渡すと110番した。襲名披露をこれ以上伸ばすわけにも言わず、医者が反対するのを押し切って退院した光乃だったが、歌舞伎界一の名跡である以上、金に糸目をつけずに準備した。ある時、雪雄は光乃に襲名を機にすべてのものに三行半を書いて渡した。襲名を機に私生活をすっきりしようという決心を動かないために光乃に伝えたものだった。襲名興行も大成功に終え、光乃は再び入院した。かなり危険な状態にもなったが、何とか峠を越し、雪雄はまめまめしく留守を守った。映画女優との共演はもってのほかと断った。はけ口を家の中だけだったものが外に向かって自己主張できるようになり、癇癪の爆発が激減した。光乃を連れて3週間の欧州旅行に出かけた。勇雄が日本大学に合格した頃から雪雄は食欲不振等に襲われ、食べた物を吐いた時に光乃は病気を確信し、人間ドッグに入って調べてもらうと、6か月の休演を発表した。兄弟揃って長唄助六を踊る舞台は虫の知らせか、光乃はしっかり見ておきたいと思って瞼に焼き付けた。雪雄はやせ細ろえるばかりで、病院を慈恵医大に変えると、胃癌だった。雪雄には胃潰瘍と告げた。最初の東大病院でも病名は当初より判明しており本人に告げるべく準備中だった。胃潰瘍を手術して切除した方が良いと言われた雪雄だが、役者の肌に傷がつくのを恐れていた。悩み抜いた上で手術を受けることを決めた雪雄は、手術の説明を光乃と弟の新二郎に聞かせた。医者はレントゲンを示して20%の成功率の手術が仮に成功しても年内保つかどうかと言い、試験開腹すると、全身に転移していて手の出しようのない状態だった。やがて退院した雪雄は湯河原に出かけたが、再び体力がガクッと落ち、再入院した。記者会見をして年明けの予定を語った雪雄だったが、その直後から激痛に苦しみモルヒネを使用し始めた。光乃は結核と腎臓の病の中、奇跡を信次て夜半の水垢離をした。夢の中でも芝居の夢を見、危篤に陥った雪雄は身内に見守られる中、永眠した。雪雄の最後の言葉は「きのね、か」だった。2人の叔父が後ろ盾となり、大学を卒業した勇雄は父の鶴蔵の名を継いだ。光乃は結核が治りきらず入退院を繰り返し、雪雄が往いて10年後、杵の音を聞いた後、旅立った。

 

ネットで確認すると、松川家とは、市川宗家のことで、雪雄は十一代市川團十郎(十一代海老蔵の曾祖父)、勇雄は十二代目團十郎海老蔵の父)。雪雄の実父宗四郎は、七世松本幸四郎。生涯、雪雄に全身全霊を傾け、雪雄亡き後は勇雄を歌舞伎役者として育て上げた光乃の人生を綴った作品とのことだった。