きのね[柝の音]《三》 宮尾登美子

1998年4月20日発行

 

八王子でも大空襲に遭い、終戦後、雪雄の弟優宅に移るほか、2人で点々と移転した。釣りの講習会で知り合った世田谷の章一郎宅の離れで世話になる。雪雄に役回りがなく金がなくなり、給金も払えず、自らも役者を廃業するからと言って、光乃に暇を出す。荷物をまとめて家を出た光乃は腹に胎動を感じた。光乃の選択肢は死ぬことだった。山形に疎開していた両親と姉の家族をひと目見た後、帰りの電車で身を投げようと思っていたが、余りの人の多さに遂に上野まで戻ってきてしまう。殴られ蹴られ折檻されて殺されても、もともと死ぬつもりだった光乃はそれも本望と覚悟を決めて、雪雄の住む家に再び戻る。光乃の姿を見た雪雄はお光と一言発した後滂沱の涙を流した。役まわりが漸く出来て、更に主役級の助六の話を貰った雪雄と対照的に光乃は妊娠の事実を雪雄に伝えることが出来ずに忸怩たる思いで過していたが、舞台上の晴れ姿をひと目見て全て払拭された。花ある人気役者に一気駆け上がった。舞台を終え雪雄に漸く妊娠の事実を知ってもらうと光乃は気が楽になった。病院に行くと逆子の為入院を勧められたが咄嗟に産婆を頼んでいるのでと断り、家の近くの産婆に頼んだ。陣痛が始まっても一人で我慢し続けた光乃はたった一人で家の中で出産した。夜になって帰ってきた雪雄は産婆の家に駆け込み、産婆が目にしたのは初めての姿だった。端然とした姿で正座していた母親と胎盤が付いたまま泣き声を上げていた赤子を見て、荘厳な聖母子の姿だと思った。男の子は勇雄と名づけられた。雪雄の父は、亮子の結婚を知りいよいよ雪雄の結婚を考え始めた時に、光乃の出産を知り、きちんとした上で暇を出すよう言うが、雪雄は結婚までは考えていないが、女中としてはいいところがあり、暇は出せないという。日本画の大御所横田黄邨の「洞窟の頼朝」の中に従来の日本画に見られない斬新さを発見した雪雄は以来熱烈なファンとなっていたが、横田黄邨も雪雄の舞台をよく見ており、物心両面の応援をしてくれるようになる。2人目を身籠り、雪代という女児が誕生する。4歳になった勇雄を跡取りとして鍛えようと、雪雄は三河屋のおばちゃんに預ける。源氏物語光源氏を演じた雪雄の人気は極め付けとなり、二人の子をなした後も光乃は日陰の身のまま時は流れる。太郎の葬式は身内だけだったため、雪雄と子供2人と一緒に葬儀に光乃は参列した。