2005年11月15日第1刷発行
帯封「楽毅、范雎、呂不韋…魏の全盛から秦の天下統一まで動乱の時代の名将たち」
目次
越の范蠡(はんれい)
斉の孫臏
秦の商鞅
燕の蘇秦
秦の魏冉(ぎぜん)
燕の楽毅
斉の田単
楚の屈原
趙の藺相如(りんしょうじょ)
趙の廉頗(れんぱ)
趙の趙奢(ちょうしゃ)
秦の白起(はくき)
秦の范雎(はんしょ)
秦の呂不韋
秦の王翦(おうせん)
これまで読んできた宮城谷昌光シリーズの復習になり、とてもよかったです。
・戦国時代に貴族や富人の家には床暖房や水洗トイレまで完備し、国には軍事用とはいえ高速道路が走っていた。女性が化粧をするようになったのもこの時代からであり、黛を使っての眉の描き方も現代人と違わない。燭台の豪華さは今のシャンデリアと変わらない。斉の国都である臨淄の人口は60万人以上。
・「范蠡」は『呉越春秋・湖底の城』の後半に出てきた。懐かしい。伍子胥の言うことを聞かない呉の夫差は、越の句践の復讐に遭い、滅んだ。臥薪嘗胆の由来である。「君辱しめらるれば臣死す」との范蠡の名言通り、呉の征伐がすんだので追放してもらいたいと申し出た。范蠡はその後斉の国に落ち着き大臣となったが、陶に居を定め巨万の富を累ねた。
・「孫臏」は『孟嘗君』に登場。孫臏が木に彫らせた「龐涓死干此樹之下」の通りになった「馬陵の戦い」は孫臏の名を不朽にした。『史記』に「孫臏、此を以て、名天下に顕わる」とある。
・「公孫鞅」も『孟嘗君』に登場。魏は、呉起を出奔させ、孫臏を逃がし、公孫鞅を抜擢しなかった。富強を果たした驕りは人材発掘をにぶらせ、観察眼を曇らせ、危機意識を払底し、改善の意欲を減退させた。
・「魏冄」も『青雲はるかに』に登場。白起という武将を見出した魏冄の洞察力が尋常でない。斉は肥大化し、楽毅が連合軍を率いて斉軍は大敗。范雎が現れ、昭襄王が魏冄を追放した。
・「楽毅」は勿論『楽毅』に詳しい。趙の武霊王(主父)が沙丘にて餓死する「沙丘の乱」、燕の昭王が斉に対し復讎するための人材を得ようと郭隗に相談した時の「まず隗より始めよ」が懐かしい。楽毅は五国連合軍を率いて斉を討つが、昭王亡き後の恵王が楽毅を疎んだ。孔明も劉邦も憧れた楽毅。
・斉の「田単」は、楽毅が斉の二城を落さないのは戦いを長引かせて斉の王になろうとしているとの噂を流し、言葉の力で楽毅を排除した。燕軍を追い払い斉の宰相となり、後に趙の恵文王に迎えられて趙の宰相となった。斉からは以降これといった人物はでなくなった。
・楚の懐王は、予見力も徳量も乏しく、秦と結ぶことの意見を説かれても秦に赴き、秦に拘束された。この年に屈原は『離騒』を書いた。宰相の子蘭は屈原を讒言し頃襄王は屈原を追放した。彼の韻文集「楚辞」は大流行となった。
・趙の「藺相如」は『奇貨居くべし 春風篇』に詳しい。この一篇で「和氏の璧」を思い出した。肝が太い。史記に「怒髪上衝冠」と紹介されていたのを思い出す。
・趙の「廉頗」と「藺相如」は刎頸の交わりで有名。『奇貨居くべし4 飛翔篇』に詳しい。
・趙の「趙奢」の物事に臆せず公平に処理できる才を見抜いた平原君は、趙奢に国税を治める官職を授けた。趙奢には軍事的才能もあった。
・「白起」は魏冄に用いられた将である。軍事的才能にたけたが、晩年、敵対者を容赦なく殺す白起に政治はわかるまいと思った范雎が昭襄王に説いて趙と和睦したことを批判し、王と范雎の言うことを聞かなくなり、最後は自裁させられた。
・「范雎」は『青雲はるかに』に登場。自分を厠に落とした相手に恨みを晴らした男だ。
・秦の「呂不韋」といえば『奇貨居くべし』。『奇貨居くべし』は呂不韋の物語と言ってよい。司馬遷は政(始皇帝)が呂不韋の子であると示唆しているが、どうか。
・秦の「王翦」は、秦王政の下で石橋を叩いて渡るタイプの将軍。しぶい勝算を立てて勝つ。