昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷
②小鳥とり、うなぎ釣り、潮干狩
③“一心もって万友に”の恩師
④台湾帝国製糖に就職
⑤鉄道建設で手腕を振う
⑥見込まれて中越水電入り
⑦「豆腐の砂」の真実
⑧伊藤忠兵衛氏から大目玉
⑨池上中越水電社長
⑩福沢社長に談じこむ
⑪不二越鋼材創立
⑫年末の賞与も出ず
⑬企業とは一体何か
⑭荒木文相と教育論議
⑮伏見宮のお声がかり
⑯割勘主義の東条さん
⑰将軍待遇の金バッジ
⑱「月月火水木金金」に反対
⑲不二越創立三十周年迎う
⑳まだまだ道ははてしない
・明治24年11月3日長崎生まれ。小学校卒業後、医者になるために長崎医学専門学校の予備校といった性格の行余学舎で学ぶ最中に父が櫨に手を出し家運衰微し退学した。長崎民友新聞の新聞配達をしたことで斎藤巌社長の知遇を得て主筆の黒木さんに勧められて台湾に単身23歳で渡った。帝国製糖会社で倉庫係、鉄道建設係を経験した。北島長兵衛と出会い、28歳で中越水電に入り支配人となった。主任技術者の家に通って1年間勉強した。中越水電が富山電気に合併され、日本海電気と名を変えたのを機に、不二越の仕事を始め、ハクソー・グレードを作った。量産と優秀な均一性能を実現し高能率を達成して初めて高賃金を実施できると考え、そのために住宅問題を解消し、病院を開設した。戦後は海外の設備を導入し世界水準に到達した。切削工具、ベアリングを始め、精密諸機器の国産化に30年を要したことは西欧の先進国から見れば短過ぎたが、それを突き破ることが唯一の道であり、30年の歴史はそのための必死の努力であった。(昭和46年5月10日死去)