昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷
①運のいい?「うん」の名
②ボートの応援団長兼選手監督
③大阪電燈から日本水力へ
④木曽川開発工事
⑤桃介社長を攻撃する
⑥わが酒歴―六十年間に六十石
⑦人物テストの社長のお供
⑧労働問題から古美術へ
⑨天津の一夜
⑩盧溝橋事件の“下地”
⑪日本発送電設立のころ
⑫やっと実った中国―九州送電線
⑬修養になった隠忍の二年半
⑭空襲もけろり、ほととぎす鳴く
⑮只見川問題で東電と争う
⑯社長兼小使の東北配電社長
⑰東北開発に全力注ぐ
⑱世界の最高水準をゆくもの
・贇(うん)は美しいことという意味らしい。父がつけたが3歳の時に亡くなっているため意味は聞けなかった。明治28年9月25日仙台の北方富谷で生れた。小学校高等科卒業後、仙台一中を経て、東京帝国大学工科大学電気工学科に入学。卒業後、大阪電燈へ入社し、日本水力株式会社に出向になった。日本水力、大阪送電、木曾電気興業が合併して大同電力株式会社が出来る。昭和11年、大陸政策に協力するために支那に渡った。帰国後、大小五百を超える電気事業の会社を整理統合して日本発送電株式会社を作ることになった。17年に全国に9つの配電会社ができ、電気事業の戦時体制は整った。21年に東北配電に入り、暮れに社長になったが、社長と社員と小使を兼務する状態だった。電力事業の再編成が問題提起され、9つに分割され、今の東北電力となった。その後、東北総合開発問題に取り組んだ。
(昭和35年より55年3月末まで東北電力相談役をつとめた。57年9月22日死去)