和田恒輔(富士電機製造相談役) 私の履歴書 経済人14

昭和55年12月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①家運傾く中で母を失う―進学を決意する

②父に内緒で下関商業へー三先生の御恩

          ③神戸高商入学―北海道で海運事情の調査

          ④古河鉱業入社―内戦最中の中国へ初出張

          ⑤販路開拓でインド駐在―欧米視察に随行

          ⑥上海支店長に―ジ社と提携富士電機創設

          ⑦国産化交渉難航―戦時中軍需工業化

          ⑧株式譲り受け交渉難航―追放を免れる

          ⑨会社再建―原子力発電第一号に全面協力

          ⑩ジ社と提携50年―招かれてドイツに遊ぶ

          ⑪ソ連経済を視察―東欧旅行・北欧の旅

          ⑫私の趣味―仏心を信じ感恩の念を忘れず

 

明治20年11月3日山口県生まれ。母が明山寺の出のため子供の頃からお寺へお経を習いにやらされた。母は享年33歳で他界したが、やさしい、いい母だった。小学高等科3年から興成義塾に移り、そこで宇部興産の社長俵田昭君と知り合い、後に交際が深まった。叔父の家に居候しながら下関商業に進んだ後、神戸高商に入学。卒業後は古河鉱業へ入社し、大阪販売店詰めとなり電線の販売をやらされた。1年間の兵役を終え大阪販売所に戻り、鉱石の委託精錬と石炭販路の確立に携わる。中国、ウラジオストック、インド、南アフリカでの仕事・出張の後、サンフランシスコ、ニューヨーク、ヨーロッパ各国を回り、療養後、上海支店長として赴任。帰国後、古河電気工業に移り、古河とジーメンスとの提携後、新会社創立準備にかかり富士電機製造株式会社が設立された(ふじの「ふ」は古河、「じ」はジーメンス)。肺病療養後に復職し、常務、専務の立場で、戦時中は軍需品の生産増強に努力を傾注した。戦後、1万人を超えた従業員を3千人程度に減らし(実際には千三百人程度になった)、20年11月吉村社長の後を継いで社長に就任した。27年に再びジーメンス社と提携復活させた。29年頃から原子力発電の研究に取り組み、22社で第一原子力グループを結成。昭和33年社長を交代し会長に就任。80歳の誕生日をジーメンス社から招待され真心こもったもてなしを受け感謝に耐えない。訪ソ視察団、北欧経済視察に参加し実り多き愉快な旅を経験した。(昭和54年12月2日死去)