鹿鳴館の系譜《上》 近代日本文芸史誌 磯田光一

1997年10月20日発行

 

訳語「文学」の誕生

「文学」という言葉は「論語」先進第11の「文学、子遊、子夏」にまで遡行できるとするのが通説。孔門の四科「徳行」「言語」「政事」「文学」の一つに数えられる「文学」とは吉川幸次郎氏の注釈によれば、「学問、ことに文献についての学問」を意味した。文学を表すliteratureがラテン語のlitterataに起因することは西欧文学の常識だが、原義は言葉の学としての文法論に遡り、ラテン化した文学概念は言葉によって書かれた学芸一般を意味するに至る。この文学概念は18世紀末まで続いた。この本来の意味が現在の狭義の「文学」に変わる要因は3つある。1つは小説が市民権を手に入れるにつれ、詩と戯曲のほかに「虚構」を目指すジャンルが加わり、それらの総称が求められたこと。2つ目は虚構の美学を目指した結果、個人の覚醒が文学の概念のうちに個性という契機を加えつつあったこと。3つ目は歴史が事実の記録と考えられることによって文学に収まりにくくなったことである。訳語「文学」の定着過程は鹿鳴館の文脈のうちにあった。鹿鳴館の落し子は「文学」だけでなく「芸術」という用語も文学とほぼ同じ運命をたどって定着した。日本訳「聖書」の改訳も鹿鳴館主義の落し子である。明治時代のヨハネ福音書の書き出しは「太初(はじめ)に道(ことば)あり」であった。

 

湯島天神丸善

日本に公園の創設が始まったのは明治6年1月15日太政官布告によってである。上野寛永寺浅草寺飛鳥山が公園として指定され、明治23年湯島天神に及んだ。近代的公園として境内が再編成された時、円朝から紅葉に至る世代に経験として刻印されていたものは放逐されてしまった。湯島天神を公園にした思想は広い意味での鹿鳴館の思想の延長戦上にあった。欧化の潮流として西洋の書籍に触れることができのはもう一つの鹿鳴館というべき丸善という窓口があったからである。

 

東京外国語学校の位置

松江変則中学(後の松江中学)は英語の授業がなく、ライヴァル関係にある鳥取中学は英語の力が養われていたが、この関係は浮雲の本田昇と内海文三の対立の原型であろう。同じ敷地に建つ開成学校と東京外国語学校の性格は島根中学と松江変則中学との対比の拡大と同じであろう。「浮雲」の内海文三は理想主義者として、本田を俗物として描きつつ、二葉亭の外国語学校文三の内面を目覚めさせるとともに外部に本田昇のような活き活きした世界があることを教えた。だが翻って考えるに明治の人間にとり留学もまた旧外国語学校と同様に外務省的なものではなかったろうか。