谷口吉郎(建築家) 私の履歴書 文化人7

昭和59年1月10日1版1刷

 

犀川

②雪国の冬

③人生の背景

④片町素描

⑤窯元

⑥わが父

幼年時代

⑧中学時代

⑨四高時代

⑩建築家死亡

建築学

⑫大学時代

⑬風圧の研究

⑭結婚の頃

慶應義塾と私

⑯ドイツの冬

⑰戦火をのがれて

⑱戦時中

終戦直後

⑳記念碑

㉑宗教の意匠

㉒各種の設計

㉓住まいの意匠

㉔美術館の意匠

㉕設計と私

明治村

 

明治37年6月24日金沢生まれ。県立第二中卒業後、第四高等学校に進んだ。関東大震災で丸ビル、三越、帝劇、浅草12階「凌雲閣」の代表的建築が倒壊してショックを受けた。丸谷焼の家に生まれた私だったが、時勢と大震災が建築への志向を強め、東京帝国大学建築学科に通学した。築地小劇場にもよく通った。大学院に残った後、東京工業大学へ講師として勤め始め、建築物に作用する風圧の実験研究に取り掛かり研究結果を発表したことで学会学術賞を与えられ、工学博士の学位を受けた。慶応の幼稚舎や日吉の寄宿舎の設計を担当した。戦後三田の第三校舎と学生ホールの建築に関与した。外務省嘱託としてドイツへ出張し日本大使館と日本庭園に携わった。戦後は青森県知事から十和田湖に立つ国立公園記念碑の設計を依頼され、高村光太郎さんも参加して湖畔に「乙女の像」が完成した。盛岡市には「原敬記念館」、山形県に「斎藤茂吉記念館」、新潟県に「良寛記念館」、島崎藤村は3か所、鴎外には5回記念事業に関与し、その他大勢の墓碑に関与した。「千鳥ヶ淵戦歿者墓苑」「不仁禅堂」「乗泉寺」や「ホテルオークラ」「帝劇」「東京会館」「資生堂会館」のほか、「石川県美術館」「山種美術館」「出光美術館」「東京国立博物館」構内の「東洋館」、「東京国立近代美術館」にも関与した。名古屋の「河文」、京都の「好文庵」、迎賓館の「和風別館」にも。明治建築の保存救済のため「明治村」が開設された。(昭和54年2月2日死去)