2022年9月15日発行
帯封「「何らかの『基準』や『規範』から外れた者にとって、ますます苛酷になりつつある現代の日本で、この世界のこわばりを解きほぐす勇気を促す力が李良枝の文学にはある―温又柔 日本と韓国―二つの『母国』の間で揺れ惑う個人の苦悩と葛藤を文学に昇華した作家が未来に託した小説とエッセイ。巻末に年譜を収録 歿後30年記念出版」「あなたが最も影響を受けた作家は誰かと問われるたび、李良枝、と答えてきた。あらゆる境界地帯で、『標準』や『軌範』とみなされているものを疑い、『世界はもしかしたら別な目で捉えられるのではないか、と信じ、そう試みようとする』人々にとって、あるがままの自分を十全に表現するための方法を模索する李良枝のことばは、輝かしいはずだ。(温又柔『解説』より)」
目次
Ⅰ 小説
由煕ユヒ
刻
石の聲
除籍謄本
Ⅱ エッセイ
言葉の杖を求めて
木蓮によせて
私にとっての母国と日本
解説 切実な世界性を帯びた李良枝の文学 温又柔
李良枝 年譜
初出一覧
由煕 1989 年第 100 回芥川賞受賞作。
韓国人女性と韓国に留学に来た在日韓国人女子学生との交流を通じて韓国と日本の間で自らのルーツや言語の問題をめぐって葛藤する「由熙」と在日同胞だが言語の不自由さなどの差異から由熙を素直に受け取めきれない韓国人女性の複雑な民族・言語意識を炙り出している。
在日韓国人の由熙は日本から韓国のS大で学ぶため主人公の家の下宿生となった。同居する主人公の叔母も由熙に会ってから協力的になった。主人公は 30 代の韓国人女性で由熙に親近感を抱き性格も似ていたことから妹のように接した。ところが6か月後、由熙はS大を卒業することなく主人公と喧嘩別れのようにして帰国した。帰国時には日本語で書かれた厚い書類を書き残していた。一体、仲の良かったはずの二人の間に何があったのか?
読み進むうちに、主人公は、どうやら由熙が外国人留学生枠で韓国の名門大学に入学を許されていながら、実際に由熙が話す韓国語は発音や文法を含めて未熟なのに日本語の本ばかり読んでいて韓国語上達の努力を怠っているのが目につき、次第に喧嘩するようになっていたが、その都度、由熙は日本語に戻り日本語で考えるため、結局、理解し合えずに別れたのだと分かる。由熙が家を出ていくことを決めた数日前に中退届を出した日、由熙はオンニとアジュモニの韓国語が好きです、こんな風に韓国語を話す人たちがいたと知っただけでも、この国に居続けてきた甲斐がありました、私はこの家にいたんです、と語り、何度も頭を下げて申し訳ありませんと俯いて呟いた。主人公はその言葉を冷静に聞くことができず、大した意味も感じられないでいた。叔母は由熙が韓国がどんな国かもしれずに理想だけを持ってやって来た、その思いは同胞だからわかるけれど、でも結局由熙は日本人みたいなものですよ、外国にきたようなものなんだからと言った。叔母の言うことは理解できたが、わけのわからない苛立ちが込み上げてきた。由熙は大学を辞めたいと相談をもちかけたことがあった。由熙にとっては皆が話す韓国語が催涙弾のように聞こえてならず苦しくてたまらなくなる、答案用紙は書けるけど偽善者だと思う、と言っていた。
同じ韓国人でありながら、韓国語を母語とする韓国人と、日本語を母語とする在日韓国人との間にある溝は簡単に埋まるものではなく、言うに言えない葛藤が両者の間にあることが描写されている。