昭和58年11月2日1版1刷
①鹿鳴館趣味の洋館に生まる
②論語でそろばんはじいた父・栄一
③活動写真と錦輝館メロディー
④焼き打ちを免れた「飛鳥山御殿」
⑤高師付属中学と「克己寮」の生活
⑥人生・芸術を語った友を失う
⑦趣味をこらした一高の記念祭
⑧蘆花の「謀叛論」に感銘
⑨“自らを画する性癖を改めよ”と父の指南
⑩自費で欧米見学旅行
⑪田園都市会社のこと
⑫「おもかげを わすれかねつつ…」亡き秀二の遺詩
⑬過去を現代に生かして未来の道しるべ
⑭善良な国民になることの願い
・明治25年、渋沢栄一の三男として生まれる。明治34年一家は飛鳥山に引越した。東京高等師範学校付属中学校に通う頃、父は強大任のために私塾「克己寮」を設け、私は大橋銅造先生に教わった「徒然草」、陶淵明の「帰去来辞」、英語の渡辺先生に習ったヒュー・ミラーの「マイファースト・デイ・イン・ザ・クォリー」など随筆的なものに心をひかれた。一高の一部(法文科)のフランス法科に入学した。一高に徳富蘆花が来て謀叛論を講演すると新渡戸校長が文部省から譴責処分を受けた。父は青少年を招集して宇野哲人先生の下で論語会を催した。帝大法科に入学したが、文科へ移りフランス文学を専攻し酔うとしたが思いとどまった。卒業後日本興業銀行に勤めた。中耳炎になった時に辞職し、田園都市株式会社に移った。親の七光りで取締役となり、その後東京東宝劇場の取締役会長になった。昭和22年3月東宝の役員は総辞職し追放されると、私は雑誌や新聞に随筆を書き始めた。