壬生義士伝《上》 浅田次郎

2002年9月10日第1刷 2013年5月25日第28刷

 

裏表紙「小雪舞う一月の夜更け、大坂・南部藩蔵屋敷に、満身創痍の侍がたどり着いた。貧しさから南部藩を脱藩し、壬生浪と呼ばれた新選組に入隊した吉村貫一郎であった。“人斬り貫一”と恐れられ、妻子への仕送りのため守銭奴と蔑まれても、飢えた者には握り飯を施す男。元新選組隊士や教え子が語る非業の隊士の生涯。浅田文学の金字塔。」

 

第十三回柴田錬三郎賞受賞作品

足軽の身分でありながら、剣術も学問も出来た吉村貫一郎は、藩校の助教を務めていたが、主家を捨てて脱藩した挙句、勝手に鳥羽伏見の戦に参加し、これに敗れるや、大坂の南部盛岡藩蔵屋敷に帰参を願い出た。当時南部藩は飢饉に見舞われ、働きに応じた御役料も支払われなかった。ある日、身籠った妻のしづが口減らしのために入水自殺を図った。算え9つの長男が貫一郎に母を叱るなといい、母にはおぼっこを産んでくだんせといい、自らは兄者ゆえ腹などへりはせん、飯なぞ食わねども良がんすというのを聞いて、貫一郎は妻子を残して脱藩することを決意する。そして銭を稼ぐ目的で江戸に上がり、新選組の隊士となり、守銭奴と蔑まれながらも、国元へ仕送りを続けた。が、結局、鳥羽伏見の戦で隊士とはぐれ、満身創痍で蔵屋敷に辿り着き帰参を願い出たが、かつての竹馬の幼馴染みの大野次郎右衛門から、武士の風上にも置けぬと切腹を命じられた。江戸に出て新撰組の新規募集に応じて入隊しようとした貫一郎は、北辰一刀流免許皆伝の腕前で、隊長の一人である永倉新八と互角以上に渡り合い、早々と諸士調役兼監察となり、席次からすれば局長、副長、参謀、一番隊から十番隊まであった隊長に次ぐ幹部となった。凄腕なのに武張ったところがなく、学があっても鼻にかけない。月々の給金が出ればすぐに国元に送る姿から、守銭奴などと罵られるが一向に意に介さなかった。貫一郎を知る人物が次々と登場して貫一郎の過去を回想するとともに、貫一郎自身が回想する場面が続く。ある時は、貫一郎が同期入隊した2人の隊規違反の介錯役を仰せつかり、副長の土方歳三から2両を授かったが、刃こぼれが生じたので刀代として10両をせしめ、金への執着に皆から笑われたが、それも一切意に介さない。そんな貫一郎を斎藤一は大層嫌っていた。憎んでいた。

 

貫一郎の言葉

「義を貫くのであれば、たとえ武士道をたがえても人の道を踏み誤ってはならない。これからは僕も、大義とは人の道であると信じることにしましょう」(上・274p)

「わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、大いなる不実に対してでござんした。わしらを賊と決めたすべての方々に物申す。勤皇も佐幕も、士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。石をば割って咲かんとする花を、なにゆえ仇となさるるのか。北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。それともおのれらは、貧と賤とを悪と呼ばわるか。富と貴とを、善なりと唱えなさるのか。ならばわしは、矜り高き貧と賤とのために戦い申す。断じて、一歩も退き申さぬ。」(上・403p)