剣鬼《下》 柴田錬三郎

2014年12月10日発行

 

人斬り斑平

 中里介山によれば、達人の品評について、大家(上泉伊勢守柳生但馬守)名人(塚原卜伝)上手(小野次郎右衛門、宮本武蔵)の順になっている。世に知られずに剣に天稟を有ち乍らその業ゆえに生命をすてていった兵法者は数知れない。斑平は白犬をかわいがったキンという侍女の生んだ子だったが、犬の胤と結び付けられ、白犬が斑だったことから斑平と名付けられ、狗っ児と蔑まれた。育ての老爺から一芸を見につけよと遺言され、草花の栽培に才能があり、花造りを命じされる。居合の浪士の瞶めるだけの稽古が半年続いた。やがて白刃の光芒を視線で追うことができるようになった。隠密を斬るよう命じられて実行すると、相手は稽古をつけてくれた浪士だった。因縁からまる刀剣類が奉納された神社から長い一振りを手にとると悪寒が走った。伊勢神宮の宝物殿から盗まれた神宝あざ丸という名剣だった。平家の猛将平景清の所持と言われている。次々と若い生命を奪っていった。主君が死に、10名の仇討の相手をするが、斑平を仕留めたのは猟師の鉄砲だった。

 

通し矢勘左

 手違いから40歳を越えた官兵衛の妻つうは二十歳に満たない杉戸和平を養子に迎え、赤児をもうけた。勘一と名付けられた子はひどい吃りだったが、一芸を磨くべく弓の鍛錬に励んだ。出世が叶わぬと知った勘一、名を星野勘左衛門と改めたが、脱藩して諸国を流浪した。尾張藩に召し抱えられた勘左衛門は、名を挙げるために三十三間堂の通し矢を挑んだ。ところが紀州藩の18歳の若者が先に7千本を超える前人未踏に偉業を打ち立てた。女郎のお千に励まされ、訓練を続けた勘左衛門は8千本の記録を樹立した。自分の役目を果たしたと思ったお千は姿を消した。その記録を見ていた若者和佐大八が17年後に記録を更新した。

 

裏切り左近

 数田左近が、狼藉を働く4人の武士を斬り、小諸藩大番頭・志賀庫之助の息女を救った。息女の父は息女の意を無視して左近との婚姻を決め、左近は嫌われているのを承知で娶った。御前試合でも友三郎を破るなど敵なしだったが、暴徒4千の前にただ一人姿を現した左近は奉行から声がかかるのを待ちながら遂に声がかからず、一人で4千の暴徒を相手にした。猛然と斬り込み遂に還らなかった。

 

確かに文章のリズムが素晴らしい。とても真似出来るものではない。