たそがれ清兵衛《下》 藤沢周平

1995年5月20日発行

 

だんまり弥助

杉内弥助重英は極端な無口のため少々変り者とみられていた。若い頃は今枝流の剣士として高名だった。弥助の数少ない昵懇の友の曾根金八は、次席家老金井甚四郎と中老大橋源左衛門の対立激化や、村甚と蔑まれる商人の暗躍、そして服部邦之助が一枚嚙んでいることを弥助に語り、大橋派の動きに気を付けろと忠告する。弥助は服部の名を聞いて思い出す。15年前、従妹の美根が自裁した。料理茶屋から出て来た従妹を見て声をかけると彼女は振り向きもせず足早に立ち去って行った。この料理者は有名な密会の場所だった。弥助は美根と気が合っていたが、半月後、美根は自害した。自殺に追い込んだのは自分だと弥助は思った。相手の名前が服部邦之助だった。弥助宛の美根の遺書を母から渡され、服部邦之助に欺かれた、過ちは一度だけだったのを信じてもらいたいと書かれていた。弥助は以来少しずつ寡黙になった。金八が弥助の家を訪ねると弥助が突如襲撃された。襲撃者が相手を間違えたようだった。金八の言うとおり封書を届けた後、狙いは金八だと思うと金八が心配になった。金八の家を訪ねると服部が先に訪ねて金八を連れ出したと聞く。金八は既に命を奪われていた。斬ったのは服部と弥助は大目付に露骨に仄めかしたが、大橋中老はこれを隠蔽した。執政府は大橋派一色となり、村甚は郡代次席の役職に就いた。藩主出座の家中総登城の広間で藩政改革案が発表されたことに対し、弥助は堂々と意見を述べ反対した。村甚と大橋家老との癒着についてもその一部を明らかにし出した。大橋家老は失脚、村甚も元の10石に戻され、服部も大橋中老ともども家禄を半減された上に50日憂悶となった。服部が勝負を挑んできた。服部の完敗だった。弥助は無性に誰かに話しかけたい気持ちになっていた。

 

かが泣き半平

かがなきという国言葉は、わずかな苦痛を大げさに言い立てて、周囲に訴えること。鏑木半平がこの「かが泣き」で、周囲の者も妻女も半平のかが泣きを聞き流していた。ある日、半平は藩主の一門守屋采女正の家臣が子連れの母親を折檻しているところに出くわし、これを救おうと家士に組みついた。後日、半平は以前の普請の事故で亡くなった人夫の家に藩主の下され物を届けに行ったが、その長屋に先日の母娘がいた。下され物を渡した半平がかが泣くと、後家は真に受けて肩や足腰を揉んだ。帰り道で先日の家士が人を斬った直後に出くわした。1年前にも不可解な事件が起きていた。こうして、半平と後家はねんごろな関係になっていった。そんなとき、藩主は守屋采女正を隠密裏に亡き者にせよと命じ、無名の討手を探した結果、心極流という小太刀の名手だった半平が選ばれた。家老に呼び出され一度は辞退したが、後家との関係を指摘されて不問にして欲しければ討てと恫喝される。最初に服部を木刀で脛を打ち据え、後日采女正を仕留めた。不問に付されるのが褒美だったが、命がけのタダ働きをさせられた気がしてならなかった。

 

日和見与次郎

郡奉行下役の藤江与次郎が報告のため奉行の部屋を訪れると、奉行は三浦屋と密談していた。藩内で対立する二派の財政改革案への検討が行われていると予想された。12年前、藤江の父は派閥抗争に巻き込まれ家禄を半減され勘定組から郷方勤めに変えられるという痛い目にあい、気落ちして2年後に死に、5年後には母も病死した。その姿を見て、与次郎は関わり合いを避けて現在対立中の丹羽派や畑中派と距離を取り日和見の立場を決めている。同僚から丹羽派につけと勧められるが中立を貫く。そんな折、与次郎の母方の従姉織尾の夫杉浦作摩が2回にわたり江戸の藩主に呼ばれた。改革案に藩主がどのような意見を持っているかを唯一知る杉浦であるだけに与次郎は警告するために杉浦の家に訪れるが、家の前で足止めを食う。後日杉浦の親族は全て斬殺された後に火を付けられたという疑いがあることを耳にしたが、証拠がなく沙汰止みになった。与次郎は不利な状況に追い込まれていた畑中派の番頭の淵上多聞による犯行を疑った。杉浦家の前で足止めを食ったのも淵上が杉浦と会っていたからだと推測できた与次郎は自ら杉浦一家の殺害を命じた者を突き止めた。改革案は丹羽派の案が採用され畑中派が敗北して悉く処分される中で一人淵上だけは処分を免れた。与次郎は一人淵上を襲い、肩を存分に斬り下げた。

 

祝い人(ほいと)助八

御蔵役の伊部助八は2年前に妻を亡くしやもめ暮らしとなり身なりが穢くなった。悪臭すら放っていたために、ある時、御蔵を視察に来た藩主に窘められた。そのため、物乞いを意味するほいと助八との渾名がついた。そんな助八の元に、親友飯沼倫之丞の妹、波津が訪ねてきた。2年ほど前に嫁いだ御番頭の甲田豊太郎がたびたび乱暴を働くため離縁していた。ところが、豊太郎は腕力に物を言わせてこの日実家に向かったため、倫之丞が助八の家に避難させた。午前零時頃に波津を家に送り届けると、豊太郎がいて倫之丞に果し合いの日時場所を告げていた。助八はその場で代役を名乗り出た。与次郎は白木の棒を握り、木剣を握る豊太郎の小鬢を棒で打つと身体が後ろにはじき飛んで倒れた。与次郎は香取流の跡取りだった。豊太郎は以来姿を現さなくなった。1か月後、倫之丞は波津を後添いにもらう気はないか、波津もそう望んでいると言ったが、助八は断った。しばらくして組頭の殿村弥七郎が中老の内藤外記を城内で刺殺する事件が起きた。助八は直心流の高名な剣客の殿村への討手に選ばれてしまう。髪結のために波津を呼び出してテキパキした姿を見て求婚したが、新しい縁談が決まったとして断られた後、殿村の屋敷に向かった。およそ2時間に及ぶ斬り合いの末、殿村は地面に横たわっていた。傷口から血を流しながら家に辿り着くと、波津が走り寄ってきた。幻を見ていると助八は思った。