絶海にあらず《一》 北方謙三

2011年5月20日発行

 

 藤原氏のための大学、観学院の別曹の一室にいた藤原純友。四代前の冬嗣は観学院の創始者。曾祖父の長良には二人の妻がいて、片方の妻が生んだ系統からは、高官が輩出。もう片方は、そこそこの家柄と思われていた。純友の祖父はそこそこの家柄の祖ということ。父は太宰少弐。雨で都に何百、何千の死者が出た時、純友は小野好古と平直文と出会う。小野好古が音橋と名乗る身分の高そうな男を連れてきた。盗賊を殺さぬ程度に打ち懲らしてもらいたいとの依頼だった。純友は比叡山の遠藤守保に協力を仰ぎ、盗賊を打ち懲らしめた後、遠藤守保と坂東に向かった。守保の賦役が免除されたからだった。坂東には源と平の流れがある。源や平に比べると小さな遠藤のような流れもいくつかある。守保の父は守村。守保は不二丸という若者を純友につけ、不二丸との旅の途中、平将門と出会い、鹿鍋を一緒に食した。将門と入れ違いに、空也という念仏を唱える僧に出会う(第1章 流水)。

 小野好古左大臣藤原忠平の弟良平の私邸に向かった。好古は忠平の信任が厚いが、便利に使える男にすぎない。わかった上で好古は忠実な狗として働くことを肯んじていた。藤原純友に打ちのめされ、一旦は大人しくなった良平の二男だったが、また人を斬り始めた。忠平から看過できない、処断せよと命じられた。平直文が純友の新しい友となった。直文は平貞盛の下にいる。貞盛が直文を訪ね、伊予から賦役で送られてきた物部行村を預けた。行村は些細なことで喧嘩し、口はたつが腕は立たない。伊予を馬鹿にするなと突っかかる。琵琶湖に魚取りに出かけた際、天気が荒れて忍びで水遊びをしていた左大臣忠平卿の難儀を貞盛らが助けた。忠平卿と一緒に音橋(忠平の弟・良平)もいた。純友は伊予掾に任じられた。地方官としては守、介に次ぐ第三位。純友の弟純素と惣太を連れて伊予に向かう(第2章 風浪)。

 伊予へ行く道中、雪童子に出会い、伊予では力を持つ越智一族に縁があることが大事だといわれる。雪童子は風岩の一族と呼ばれていた。国衙庁で越智少三が出迎えた。純友は猿鬼を従者にした。小部長久・長景父子に会った。風月の十郎にも会った。物部行村の父・行高にも会った。明田左近の娘佐世とも会った。純素は越智一族の力を借りなければ伊予をよく知ることもできないと言ったが、それ以外の伊予もあるはずで純友はそれを見極めるつもりでいた。郡司の越智安材にも会おうとした(第3章 任地)。

 二度、猿鬼を伴い宮崎に出かけた。小部長景が櫓の使い方を教えてくれた。荷を積んだ船が通るには越智郡司の許可が必要だと言う長景と話をしていると、利を得ているのは朝廷で、藤原北家の一部、つまりところ藤原忠平だと理解できた。長景から宮崎安清という腕の立つ水師の紹介を受けた。京で清涼殿に落雷があった。死人まで出て、体調の悪かった醍醐帝に譲位の噂が流れた。純友にあいさつに来た郡司の越智安材と会ったが、伊予を支配しているのは、この男ではない、この男の背後に誰かがいると思った。安材は父安連と会い、宇和郡の水師にだいぶ不満が溜っていることを報告した。京への物流を制限しているのは、唐物の値を下げないためであり、それが京、藤原北家のやり方であり、すべては藤原忠平が決めていた。時平が政事の頂点にいた時、船の航行量の規制などなく、唐物を扱う船の数が月に何艘と決められていただった。安連は安材の報告を聞いて、新任の伊予掾にいい予感と悪い予感が同時に襲っているのを感じた。忠平卿が伊予を欲しがっているのかもしれないとも疑った。純友は櫓一挺で帆を揚げた船を操れるまでになった(第4章 潮流の底)。