柳宗悦(むねよし)と美 土田眞紀

2022年6月20日初版第1刷発行

 

表紙裏「柳宗悦は、常識にとらわれず美しいものを見ぬく目をもっていました。ふつうの人びとの生活道具に宿る美しさを世に知らせるために民芸運動を展開し、美と芸術の分野で新しい世界をきりひらきました。本書では「美とは何か」を問いつづけた、その生涯を、宗悦自らが語ります。」

 

目次

 柳宗悦とわたし

 はじめに

1 芸術にあこがれる心 0〜24歳

2 朝鮮を想う     25〜32歳

3 「民芸」の誕生   33〜38歳

4 民芸運動の使命   39〜47歳

5 いまもつづく手仕事 48〜55歳

6 きよらかな白蓮華  56〜72歳

 柳宗悦ゆかりの地

 柳宗悦略年表

 

・母は嘉納治五郎の姉で、父は宗悦2歳の時に亡くなった。学習院時代にトルストイホイットマンに触れ、乃木希典校長に反発を持った宗悦だったが、中学2年の時に出会った服部他之助先生に大きな影響を受け、とりわけ自然の美しさを教わった。3年になり新しい雑誌「白樺」を作った。志賀直哉武者小路実篤も当時は無名の若者だった。「白樺」で紹介したゴッホロダンもまだ当時は日本ではあまり知られていなかった。ロダンに手紙を書き3点の彫刻を受け取った。ゴッホの手紙を翻訳して「白樺」に連載した。この頃、後に妻となる中島兼子とリーチに出会った。リーチは英国詩人ブレイクを愛していた。中島兼子と結婚した後、斜め向かいに志賀直哉夫妻が引越し、隣にリーチが焼き物の窯を築いた。宗教に強い関心を持ち、中世のエックハルトに魅力を感じた。エックハルトは、すべてをすてて自分の身ひとつでじかに神と向き合うことを大切にしていた。ロダンの彫刻を預かっていると聞いて宗悦を訪ねてきた朝鮮からやってきた浅川伯教から朝鮮の白磁の壺をもらった。あたたかみや気品がそなわっていた。本阿弥光悦の硯箱を同じころ展覧会で見て形の美を教えられた。朝鮮と中国を旅した。東洋の思想をもっと学ぶために仏教経典や中国古代の思想書を読み始めた。2度目の朝鮮旅行の際、青花(染付)辰砂蓮花文壺に触れ、朝鮮の工芸品や美術品を集めた美術館、朝鮮民族美術館を作りたいと願い。「白樺」で計画を発表して寄付を募った。浅川巧、妹の千枝子はこの美術館の創設に不可欠な2人だった。

・朝鮮王朝最大の宮殿で京城の中心にある光化門が取り壊されると知り、文章をしたためて朝鮮の新聞と日本の雑誌に発表し、世論を動かし、取り壊すかわりに別の場所に移すことになった。1924年4月9日、朝鮮民族美術館開館。京都の同志社大学で英文学を教えながら宗教哲学の研究に取り組むとともに各地への旅が始まる。木喰五行上人の木喰仏に夢中となり、同時に陶工の河井寛次郎と知り合った。濱田庄司との語らいの中で、民衆的な工芸を短くした「民芸」という言葉が生まれ、日本民芸美術館の計画が持ち上がり、3人のほか富本憲吉が加わった。

・石皿、茶壷、木工品、格子模様の布、大津絵。これらを収集して第1回民芸品展覧会を東京で開催し、第2回を京都で開催した。アメリカで1年程大学で教えて帰国した後、日本民芸美術館設立に向けて動き出し、1931年4月に開館した。京都から離れていたこともあり2年で閉館したが、今度は目黒で日本民藝館をスタートさせた。山形の新庄の蓑を始め東北の民芸運動や沖縄の民芸運動にも注力し、戦時下でも次々と執筆活動を形にして多数の本を刊行した。戦後、学習院時代の恩師鈴木大拙と再会し、妙好人の調査と研究に取り掛かった。1961年、72歳で亡くなる。