絶海にあらず《四》 北方謙三

2011年5月20日

 

二千を超える船が日振島に集結した。伊予守と安材が解決に向かったが無力だった。今度は宣旨が下った純友が水師たちに会い、京まで行けば謀叛で捕縛される、各地に戻り水師の仕事をしろ、京の商人も今なら荷を受け入れる、伊予沖の通航を保証する、忠平に海には手が出せぬ、京が坂東に力を割いている間を生かそう、海が誰のものでもないことを認めさせる謀叛だ、と説得した。紀州から50艘の船が九州に向かい、純友は、これは京の作戦であり伯方島に留めることにした。5艘ずつ九州に米の買い付けに行かせ、戻ってきた船は伯方島に留めて50艘が買い付けを終えると坂東に向かわせた。大宰府水軍が動き出した。壱岐対馬で純友・二郎・氏彦の各10艘で唐物の船3艘を沈める初陣は勝利したが、以前の大宰府水軍と違ってこれからはたやすい闘いにならないと思わざるを得なかった(第13章 無窮)。

 純友は、高麗で唐物を買い付ける指示を徳丸と泥牛児に出して、京での唐物の値崩れを狙った。大宰府から良平が伊予の純友を訪ねに来た。良平は安材に、風岩や風月を捕縛せよと命じた。風月が唐物の船の情報を送っていたことを突き止めてのことだった。徳丸が10艘の船で高麗から戻った。純友は対馬の大船越に拠点を作るのがよいと純友に助言すると再び高麗に向けて出発した。純友は大船越の為輔に会いに行く。忠平が隠岐を襲う可能性を考えていた純友は先手を打って大宰府を混乱させるために小部長景を通じて囚人に暴れさせた。隠岐武生水(むしょうず)には安清の軍船20艘に加えて40艘の船隊を入れ、大船越にも20艘を配備する計画を立て、自らも高麗に渡って唐物の道を作り上げた。忠平は良平を京に呼び寄せ、良平は好古を呼び、背後に純友がいるとしか考えられぬ、これからは好古を使うと伝えた。忠平は良平とともに空也を同席させ、唐物だけでなく政事に挑んできている気がしているとの良平の報告に対し、純友の動向から眼をそらさず、大宰府決定権の全てを良平に与えた。純友も自分のやっていることが京や大宰府に知られることを腹を括り、二百艘に達しようとしている純友の軍船で、数百艘分の木材を集め始めた大宰府に対抗するには今しかないと覚悟し、戦場を玄界灘と決めた。風の声を聞いた純友は自ら前面に出る決意を固めた(第14章 風の声)。

 玄界灘大宰府水軍百艘と純友の船隊80艘がぶつかり合った。純友自ら最前線で指揮を執り、百艘を退けた。玄界灘については安清に、内海については氏彦に任せ、波止浜で純友は紀淑人を迎えた。武生水の安清を寧波に行かせた。坂東では将門が新皇を称して京と闘う意思を示し、遂に叛乱を始めた。藤原忠文征夷大将軍に任命され本格的な将門追討が始まり、同時に内海でも大きな動きが出た。備前牛窓に集結した五百余艘の船隊が一斉に動き始めた。波止浜に佐世と重太丸が姿を見せ、明田左近のところに帰した。双方が多数の船を沈めた。好古が追補凶賊使に任じられたが摂津から動かなかった。その間に将門が討たれた。玄界灘と内海を制圧した純友は唐物の船を通して財をなした。いつの間にか純友は水師が話し合って海の秩序を作るべきだと思っていても水師として見られず支配者になっていた。備後で五百艘、大宰府でも五百艘が建造中で、国の力はやはり大きい。純友は安材と伊予の混乱を終息させる盟約書を交わした。再び大宰府水軍七百艘と純友軍四百艘が激突した。大宰府政庁に押し入った純友が良平と対峙した。

良平「藤原純友。ここで私の首を奪るがよい。」

純友「良平卿は、生きられよ。生きて、海のこわさを、太政大臣に伝えられるがよい。いまここに攻めこんだのは、人ではない。海の怒りが、大波となって押し寄せているのだ。」

良平「私を、殺さぬと?」

純友「良平卿には、おやりにならなければならぬことがある。海の平穏を、その眼で見続けていかれることだ。」

良平「生き恥を晒せと言うか、純友?」

純友「生きて恥を晒すのは、太政大臣だけです。しかも、海の上だけでの恥です。だから安心されよと、忠平卿にもお伝えください。」

良平「鴻臚館も焼いたのか、純友。」

純友「焼けておりましょうな。異国との交易があそこだけというのは、国を閉ざしていることと同じであった。なにも、意味はない。」

良平「礼を言おう。あれが、私の肩にのしかかっていた。」

海戦は圧倒した。純友は玄界灘に出た。すべての水師にそれぞれの海へ帰れ、海で生き続けろと命じた。好古の討伐軍が大宰府に到着する前に全ては終わった(第15章 われ巨海にあり)。

 好古は追討使として成果をあげた。純友と重太丸は討たれたということになった。安清が寧波から唐物を積んだ三艘の大船を率いて帰ってきた。今度は純友が寧波に向かった。海に秩序は戻っていた。

 

 

巻末の歴史学者・松原弘宣の解説によると、将門・純友2人の謀叛を、「承平・天慶の乱」と一括りにしてこれ以降に武士の力が台頭すると位置づけられていることの当否について北方氏は将門との共謀は一顧だにせず、純友がいつから何故に海賊とされ、純友に従った集団はどのような人々で、どうして人々が純友に従ったかに多くのページ数を割いて説明する。そして純友の最後については、歴史的事実と異なる描き方としているとして、天慶五年五月二十日の博多津での決戦に敗れ、六月二十日に伊予に戻ったところを伊予国警固使橘遠保によって射殺され、七月七日に息子の重太丸の首とともに京に進上されているとあった。

 

2011年5月20日

 

二千を超える船が日振島に集結した。伊予守と安材が解決に向かったが無力だった。今度は宣旨が下った純友が水師たちに会い、京まで行けば謀叛で捕縛される、各地に戻り水師の仕事をしろ、京の商人も今なら荷を受け入れる、伊予沖の通航を保証する、忠平に海には手が出せぬ、京が坂東に力を割いている間を生かそう、海が誰のものでもないことを認めさせる謀叛だ、と説得した。紀州から50艘の船が九州に向かい、純友は、これは京の作戦であり伯方島に留めることにした。5艘ずつ九州に米の買い付けに行かせ、戻ってきた船は伯方島に留めて50艘が買い付けを終えると坂東に向かわせた。大宰府水軍が動き出した。壱岐対馬で純友・二郎・氏彦の各10艘で唐物の船3艘を沈める初陣は勝利したが、以前の大宰府水軍と違ってこれからはたやすい闘いにならないと思わざるを得なかった(第13章 無窮)。

 純友は、高麗で唐物を買い付ける指示を徳丸と泥牛児に出して、京での唐物の値崩れを狙った。大宰府から良平が伊予の純友を訪ねに来た。良平は安材に、風岩や風月を捕縛せよと命じた。風月が唐物の船の情報を送っていたことを突き止めてのことだった。徳丸が10艘の船で高麗から戻った。純友は対馬の大船越に拠点を作るのがよいと純友に助言すると再び高麗に向けて出発した。純友は大船越の為輔に会いに行く。忠平が隠岐を襲う可能性を考えていた純友は先手を打って大宰府を混乱させるために小部長景を通じて囚人に暴れさせた。隠岐武生水(むしょうず)には安清の軍船20艘に加えて40艘の船隊を入れ、大船越にも20艘を配備する計画を立て、自らも高麗に渡って唐物の道を作り上げた。忠平は良平を京に呼び寄せ、良平は好古を呼び、背後に純友がいるとしか考えられぬ、これからは好古を使うと伝えた。忠平は良平とともに空也を同席させ、唐物だけでなく政事に挑んできている気がしているとの良平の報告に対し、純友の動向から眼をそらさず、大宰府決定権の全てを良平に与えた。純友も自分のやっていることが京や大宰府に知られることを腹を括り、二百艘に達しようとしている純友の軍船で、数百艘分の木材を集め始めた大宰府に対抗するには今しかないと覚悟し、戦場を玄界灘と決めた。風の声を聞いた純友は自ら前面に出る決意を固めた(第14章 風の声)。

 玄界灘大宰府水軍百艘と純友の船隊80艘がぶつかり合った。純友自ら最前線で指揮を執り、百艘を退けた。玄界灘については安清に、内海については氏彦に任せ、波止浜で純友は紀淑人を迎えた。武生水の安清を寧波に行かせた。坂東では将門が新皇を称して京と闘う意思を示し、遂に叛乱を始めた。藤原忠文征夷大将軍に任命され本格的な将門追討が始まり、同時に内海でも大きな動きが出た。備前牛窓に集結した五百余艘の船隊が一斉に動き始めた。波止浜に佐世と重太丸が姿を見せ、明田左近のところに帰した。双方が多数の船を沈めた。好古が追補凶賊使に任じられたが摂津から動かなかった。その間に将門が討たれた。玄界灘と内海を制圧した純友は唐物の船を通して財をなした。いつの間にか純友は水師が話し合って海の秩序を作るべきだと思っていても水師として見られず支配者になっていた。備後で五百艘、大宰府でも五百艘が建造中で、国の力はやはり大きい。純友は安材と伊予の混乱を終息させる盟約書を交わした。再び大宰府水軍七百艘と純友軍四百艘が激突した。大宰府政庁に押し入った純友が良平と対峙した。

良平「藤原純友。ここで私の首を奪るがよい。」

純友「良平卿は、生きられよ。生きて、海のこわさを、太政大臣に伝えられるがよい。いまここに攻めこんだのは、人ではない。海の怒りが、大波となって押し寄せているのだ。」

良平「私を、殺さぬと?」

純友「良平卿には、おやりにならなければならぬことがある。海の平穏を、その眼で見続けていかれることだ。」

良平「生き恥を晒せと言うか、純友?」

純友「生きて恥を晒すのは、太政大臣だけです。しかも、海の上だけでの恥です。だから安心されよと、忠平卿にもお伝えください。」

良平「鴻臚館も焼いたのか、純友。」

純友「焼けておりましょうな。異国との交易があそこだけというのは、国を閉ざしていることと同じであった。なにも、意味はない。」

良平「礼を言おう。あれが、私の肩にのしかかっていた。」

海戦は圧倒した。純友は玄界灘に出た。すべての水師にそれぞれの海へ帰れ、海で生き続けろと命じた。好古の討伐軍が大宰府に到着する前に全ては終わった(第15章 われ巨海にあり)。

 好古は追討使として成果をあげた。純友と重太丸は討たれたということになった。安清が寧波から唐物を積んだ三艘の大船を率いて帰ってきた。今度は純友が寧波に向かった。海に秩序は戻っていた。

 

 

巻末の歴史学者・松原弘宣の解説によると、将門・純友2人の謀叛を、「承平・天慶の乱」と一括りにしてこれ以降に武士の力が台頭すると位置づけられていることの当否について北方氏は将門との共謀は一顧だにせず、純友がいつから何故に海賊とされ、純友に従った集団はどのような人々で、どうして人々が純友に従ったかに多くのページ数を割いて説明する。そして純友の最後については、歴史的事実と異なる描き方としているとして、天慶五年五月二十日の博多津での決戦に敗れ、六月二十日に伊予に戻ったところを伊予国警固使橘遠保によって射殺され、七月七日に息子の重太丸の首とともに京に進上されているとあった。