壬生義士伝《下》 浅田次郎

2002年9月10日第1刷 2013年3月25日第27刷

 

裏表紙「五稜郭に霧がたちこめる晩、若侍は参陣した。あってはならない“まさか"が起こった―義士・吉村の一生と、命に替えても守りたかった子供たちの物語が、関係者の“語り"で紡ぎだされる。吉村の真摯な一生に関わった人々の人生が見事に結実する壮大なクライマックス。第13回柴田錬三郎賞受賞の、傑作長篇小説。解説・久世光彦

 

記者は、引き続き稗田利八(池田七三郎)、斎藤一、大野千秋、佐助、吉村貫一郎(次男)ら、生前の貫一郎を知る者らを訪ねて、貫一郎や大野次郎右衛門について取材を重ねた。ある日、新選組隊士谷三十郎が何者かに暗殺された。切り口から左利きの斎藤一の単独犯であることを見抜いた吉村は、斉藤から口止め料をせしめた。これも国元へ送金するためだった。引換えに貫一郎は口をつぐんだ。鳥羽伏見の戦いで敗れた新撰組の隊士たちは困窮にあえぎ、その中で貫一郎は自らの握り飯を斎藤一に食べさせた。自分は一粒だけ食べて満腹だという貫一郎を斉藤は嫌悪した。他人の事、家族のことばかり考える貫一郎を許せなかったが、斎藤はそういう貫一郎こそ生き残って欲しいと願った。脱藩し薩長軍に楯突いた吉村を救済すれば南部盛岡藩は汚名を着ることになる。大野次郎右衛門は心を鬼にして、藩を守るために竹馬の友を切腹に追い込んだ。死ぬ前に盛岡の米で握り飯を用意し、家伝の名刀安定を準備するが、吉村は握り飯を口にすることなく、自らの刃で切腹した。安定は嫡男嘉一郎に渡った。ところが大野次郎右衛門は最後は官軍への徹底抗戦を主張し、南部藩は官軍に戦いを挑み、朝敵となり斬首された。大野千秋は大野次郎右衛門の嫡男で、貫一郎の長女みつを娶った。貫一郎の嫡男嘉一郎は父の意志を継いで五稜郭の戦いに参戦し戦死した。17歳の嘉一郎17歳が死ぬ間際に母様に宛てた独白は涙なしには読めない。貫一郎の次男貫一郎は「米馬鹿先生」と呼ばれる農学者となり、30余年の研究成果として冷害にも早害にもかつてない耐性を持つ「吉村早苗」を改良開発した。実は大野次郎右衛門は処刑直前に豪農江藤彦左衛門に宛てて吉村の次男貫一郎の養育を託す手紙を書き記していた。そこには「此者之父者 誠之南部武士ニテ御座候 義士ニ御座候」と繰り返し綴られている(下436-445)。この手紙を受け取った江藤彦左衛門は、貫一郎が母から持たせられた巾着の中身を知ると、「二分金が十枚どは、大金でねが。なんでこのような金を」というと、貫一郎は「父の形見の銭こでござんす。旅先から送って下さんした。どうかお収め下んせ」と答える。養父は「この金子は、お預かりしでおぐ。ゆめゆめおろそがにでぎる金ではねえ。さあ、立たっしゃれ。もう心配(しんぺ)は何もいらねがら」と語り、貫一郎に教育を授けた(下431-433p)。

 

大野次郎右衛門の言葉

「怒りはおのれで噛み潰さねばならぬ。いかなる理不尽といえども、噛んで吞み下せばおのれの力に変わる。ええな、千秋よ。おのれも南部武士ならば、すべての憤りはおのれの滋養と心得て生きよ。命ば無駄にするではねえぞ。遣うべきときに無駄なく遣え。その使い途は二つしかねえ。一つは民草のために捨つること。今一つは、義戦にて死することじゃ。ええな」(下106p)

「寛一はよぐ、鳶が鷹を産んだと倅の自慢ばしておったが、そうではねな。鷹が鷲を産んだのじゃ」(下290p)