花見ぬひまの《上》 諸田玲子

2021年5月20日発行

 

おもしろきこともなき

もと(望東尼)は、平尾村の庵「向陵」に住み、福岡藩の勤王派の志士、平野國臣に和歌を送って支援し、平野の「開国前に日本を統一すべし」との主張に共感を寄せた。隣人の喜多岡勇平とは互いに惹かれ合う仲だった。庵は、今は尊王派志士の隠れ家になっている。ある時、高杉晋作とおうのを匿った。も一時滞在、望東尼は、二人を匿った。もとは、高杉に「おもしろきこともなき世と思ひしは 花見ぬひまの心なりけり」と詠んだ。病に伏していた時に2人は庵を立ち去った。喜多岡が最近つけられていた。久方ぶりに姿を現した喜多岡だったが、もとに捕縛が迫っているので逃げるように促した。もとは晋作と行動を共にするおうのを羨ましいと思わず零した。もとの実家の野村家の当主が藩の役所に呼び出され、幽閉された。喜多岡は無事だったが、その直後、隣家にいた喜多岡も斬殺された。しかしその死を今はまだ受け入れることはできなかった。

 

対岸まで

おつがの好いた人は対岸の河原町にいる高林勘七郎だった。安政の大獄桜田門外、尊王、攘夷だと世間は騒がしかった。だた勘七郎はちがった。おだやかな目をしていた。父植木屋の植吉が継がせようと仕込んでいる長吉という許嫁がありながら、おつがは勘七郎に入れ込んでしまった。長吉との話を断ろうと蓮月尼を訪ねた。尼は、勘七郎がおつがのことを思っているなら植吉に話をしてくれると約束してくれた。森で人が一人死んだ。はったい粉を尼から盗んで食べた泥棒だった。役人たちは尼にはったい粉を届けたのが誰かをしきりに聞いたが、尼は勘七郎の名を出さなかった。その勘七郎が突然姿を消した。町医者なら勘七郎の行先を知っているかもしれないと思って訪ねると、頌庵も刺殺されていた。2年が経過した。おつがは長吉の妻となっていた。尼の庵には大勢の位牌とともにかつておつのが勘七郎に渡した湯飲があった。勘七郎は尼のところに逃げ込んでいた。しかし尼は自分を殺めようとした勘七郎をどうして助けたのか。尼が戻ってきて、おつがの訪問を喜んだ。おつがは洟をすすり、喉元にこみあげていた熱いかたまりを吞み下した。若妻の顔には、やわらかな微笑が浮かんでいた。

 

待ちわびた人

おちか、吉良左兵衛義周(上杉家から養子)、中村忠三郎、

佳江は、いつか村山甚五右衛門が立ち寄ってくれるかも知れないと思い、下谷稲荷に程近い門前町の茶屋を譲り受けた。下谷稲荷は2人の思い出の場所だった。塩のおにぎりが評判を呼んだが、それも甚五に見つけてほしいがためだった。赤穂浪士討ち入りから3年10か月が立った今、遠島になっていた遺児たちが帰って来る。浅野の先代に仕えた仙桂尼が赦免に尽力した結果だった。この塩にぎりは甚五のためであって、赤穂の若造などに食べさせるものではなかった。討入の当日、佳江は、吉良家の若き当主、左兵衛義周(よしちか)の小姓役を務める甚五と吉良邸の長屋で忍び逢っていた。下谷稲荷で待ち合わせをした日、2人は一線を越えた。長屋から助け出されたとき、上野介の首級と共に浪士は姿を消した後だった。甚五は逃げるしかなかった。吉良家はお取り潰しとなり、甚五の行方は杳として知れない。ところが今遺児が帰ってくると聞いて、遺児たちに恨みをつのらせた甚五が現れるのではないかと佳江は心配した。遺児を連れた役人が塩にぎりを喰わせてやってくれと現れた。追い出すつもりでいたが、この若者に罪はないと考え直した佳江だった。遺児たちは落飾することになっていた。船着場にどうやら甚五が現れていたらしい。そこに仙桂尼もいて、尼は甚五の腕に縋った。結局、甚五は姿を現さなかった。甚五は江馬を奉納した。「尼曰く、天を怨まず、人を咎めず。飯は無心ににぎるべし」その横に「神宮寺村 法華寺 甚五右衛門」と書かれてあった。佳江は追いかけて行こうと決意して、鼻緒が切れても下駄を両手にぶらさげ、刃だしになって茶屋へ急いだ。心は甚五のもとへ飛んでいた。

 

おもいあまりて

なみは、亡夫(湖白)の甥の娘まんと下僕佐助の3人で、墓参りをしようとした。なみは、庄屋に嫁いだが、子が3年半たっても出来なかった。俳句に関心はなかったが、未知なる世界をのぞいてみたいという好奇心から俳諧仲間が集まる丈日堂を覗いてみたくなった。まだ見ぬ湖白に恋をして、湖白が丈日堂へ帰って来たと聞くとなみは飛び出していった。以来、たびたび丈日堂に通うようになった。それが前夫万右衛門の知るところとなり、乱暴された。会えない湖白に胸中の思いを手紙に綴った。前夫の留守中になみは駈け落ちの挙に出た。20余年、湖白と苦労を共にした。万右衛門の子が生まれた。その娘は湖白の甥夫婦が親になって育ててくれた。まんの出生の秘密は、生涯、打ち明けるつもりはない。が、娘と故郷を訪ねた旅は、至福の思い出として胸に刻んでおくつもりだった。墓参りの途中で調子を崩したなみは、丈日堂で休み、まんに湖白との思い出話を語った。