延安からの手紙 日本軍の反戦兵士たち 早乙女勝元編

1991年3月25日初版発行

 

一章 西安からの手紙

二章 延安からの手紙(1)

三章 延安からの手紙(2)

四章 延安からの手紙(3)

五章 延安からの手紙(4)

六章 延安からの手紙(5)

 

・陜西省北部の黄土高原盆地の小さな町「延安」は、中華人民共和国を誕生させた揺籃の地。19371一月、一万キロを超える大行軍ともいうべき“長征”を経て、中国共産党中央と労農紅軍は延安に落着き、この地を革命の根拠地とした。解放区はやがて陜甘寧辺区(陜西省、甘粛省寧夏省)に広がり、日本軍はおろか、蒋介石の国民政府軍さえ寄りつけない地域となる。解放区や抗日遊撃区の民衆の指導が延安で行われ、また、そのための指導者を養成する様々な施設が、きわめてとぼしい材料による手造りで次々設けられた。その一つに、日本労(工)農学校があった。日本労農学校は、日本兵の捕虜のために作られた、世界でも例をみない、めずらしい学校。校長はモスクワからやってきた岡野進こと野坂参三氏。野坂氏は、林哲と名を変えた。それは、蒋政権への影響を考え、当時の中ソ関係への配慮もあった。岡野進はコミンテルン共産主義者の国際組織)の日本代表。コミンテルン解散のあと林哲から再び岡野進に戻る。

・目ざめた一部の人々によって、39年11月、山西省東南部に、日本兵士覚醒連盟なる最初の反戦組織が誕生。まもなく覚醒連盟は華北の解放区にいくつもの支部を持ち、日本軍に対して様々な反戦宣伝活動を展開。翌40年3月になると、モスクワから野坂参三氏が名前を変えて延安に到着。日本軍捕虜に対する教育はさらに充実して前線での反戦活動が強化され、7月に在華日本人反戦同盟延安支部が発足。略して反戦同盟。

・40年夏、野坂参三氏の指導のもとに、延安に日本労農学校が生まれ、10月には本格的に、反戦活動の戦士養成の授業がはじまった。42年になると、解放区にあったそれぞれの日本人による反戦団体が一本化し、やがて44年に日本人民解放連盟に成長。

西安の名を高めたのは、秦始皇帝陵兵馬俑坑(ようこう)。

西安事件とはなにか。交通公社のポケットガイド『中国』によると、「1936年12月12日、蒋介石西安の華清池で監禁された事件。蒋介石は、軍閥張学良に共産軍の討伐を命じたが、逆に捕えられ、団結抗日を迫られた。周恩来の調停でやむなくこれに応じ、蒋は釈放された。ここに第二次国共合作が成立し、抗日統一戦線が組織された。」

 

本当に知らないことばかりである。勉強不足を痛感する。