孟嘗君5 宮城谷昌光

1998年10月15日第1刷発行 2008年12月15日第33刷発行

 

裏表紙「嘗邑(しょうゆう)を与えられた孟嘗君・田文は、「天下万民のための宰相たれ」との孫臏の遺言で斉を出る。魏に乞われて宰相となり、斉にもどって宰相をつとめ、更に秦に赴くが、そこで生涯最大の危機を鶏鳴狗盗で切りぬける。激しい争乱の世と、人間を愛して生きた戦国の名宰相を描ききった、感動の歴史ロマン。全5巻完結。」

 

白圭の治水事業が完成し、祝うために周に向かった田文は白圭と再会したが、そこに洛芭がいたことを知らされなかった。田嬰は田文の妻を決めて西周家の嫁を迎えた。その嫁こそ洛芭だった。田嬰もそのことを知らなかった。田嬰は田文に家を継がせないことを決めた。全ては白圭が仕組んだことだった。田嬰はなぜ白圭はそれが分かっていながら洛芭を田文に嫁がせたのか分からなかった。正妻に迎えて十年、家宰と共に父を補佐した。田嬰の食客や説客は千人を超えた。統轄したのは田文で、領土や家財には執着しなかった田文だが、人には執着した。田嬰がもらった土地に薛(せつ)という国が誕生した。その一部の嘗を田文がもらい、孟嘗君となった。孟嘗君人気のせいで薛の人口が増えた。孫臏は“鈞台(きんだい)はこの世にひとつしかないが、それはそこにはない”という遺言を残した。嘗邑にこだわるのではなく、天下の宰相となれという意味だった。田文は諸国遊漫に出かけた。田文が楚に入ると、臣下の屈原が出迎えた。斉で異変の芽が萌え始めた。琴つくりの職人の笊音を鄒忌が訪ねた。毒を仕込ませた琴の注文に来た。献呈先は斉王だった。思惑通り斉の威王は死に、宣王が継いだ。宣王は当初鄒忌を信じていたが、やがて鄒忌の正体を聞かされて愕然とした。鄒忌が滅ぶ。田文は困難の中にあった魏の大梁へ向かい、洛芭が斉の威王の寵愛を受けて産んだ鄭至を初めて見た。田文は魏の襄王に謁見し請われて5年の約束で国政を預かった。魏は秦を攻めることがピタリと止んだ。秦は韓を攻めた。田文は魏と韓の国境を固めたが、秦軍に破られる(修魚の役)。田文は国力を向上させるために外交を通じて戦争を回避し農産を優先させた。諸国の有識者は田文の異彩に気づき始めた。約束の5年が来ると、襄王はあと2年の延長をと縋り田文は応じた。田文が斉へ戻ると斉の宰相となった。魏の襄王の信頼は篤く、魏と斉の親交は深まった。斉・魏・韓の三国軍が楚を攻め圧倒した(垂沙の役)。元帥田文の驍名は天下の知られるところとなった。哀れなほど楚は衰弱し始めた。田文の盛名が秦王の耳に届き、田文を秦の宰相にと迎えに来た。戦国の世は斉と秦を中心に回っており、その両輪を調整できれば車体が軋むことはないと思い、秦の宰相の道を選んだ。秦の首都咸陽で待っていたのは彼の生涯における最大の危機であった。田文を招き寄せたのは魏冄であった。ところが魏冄はちょうど秦を離れており、秦の昭襄王(しょうじょうおう)は楼緩らの佞言を用いて自ら招いておきながら僅かな月日で殺そうとして田文の宰相を罷免した。周国するためには関を通る符が必要だったが、それがない。田文は復職して符を手に入れようとし、そのため秦王の妃妾の一人幸姫に近づいて、姫が求める裘(かわごろも)の狐白裘をかつて献上した秦王の下から食客の一人の僕延の孫僕羊が盗み出した。無事姫に渡すことに成功し田文は復職し、符を手に入れた田文一行は函谷関を目指した。着いたのは夜半で夜明けまで開かないルールだった。秦では人の判断より規則が優先した。鶏鳴が聞こえたら門を開く。食客の一人祝舟(しゅうしゅう)が鶏の鳴き声の真似をし、関を通り抜けた。「鶏鳴狗盗」である。斉に戻った田文は宰相の地位に再び就き、秦を討ち、無敗を誇った秦軍をこなごなにした。斉の湣王(びんおう)は人が血を流して斃れることに覚えない者だったため、田文は斉を出て魏に移った後、おもむろに薛(せつ)に戻った。いかなる大国も田文がいるその小国に手が出せなかった。