花見ぬひまの《下》 諸田玲子

2021年5月20日発行

 

鬼となりても

 木綿屋庄左衛門(俳号東瓦)は、志燕尼(しえんに)を回顧して、摂津国伊丹野田村の蔵に囲まれた屋敷の奥座敷で火鉢に手をかざしながら語り出した。木綿屋は、伊丹を代表する大醸造家で俳諧に熱中していた。俳諧やりたいと言って志燕尼が現れた時から気持ちがぴたりと重なった。木綿屋は、志燕尼の生い立ち、天満宮での逢い引き、2人が恋に溺れていったこと、男狂いの尼との噂が流れたこと、尼になった理由は父を殺めたためだったこと(要するに父は今でいうストーカーだった)、志燕尼が31歳の春に出会ってから33歳の初夏には胸の病で彼岸へ行ってしまったことなど。東瓦の愛につつまれて志燕尼は幸せな晩年をすごした。志燕尼は、今や、生身の女として、この庭に、屋敷に、野田村にも息づいている。

 

辛夷の花がほころぶように

回船業灘屋の女中おあんは、四国から半年前に海を渡って逃れてきた。灘屋にやってきた役人の一人がおあんの過去を知っていて腕を掴まれたおあんは店を飛び出して逃げ出し、隣の龍門寺の建物に身を隠した。過去の秘密を打ち明けると、国師は不徹庵の庵主の貞閑尼に匿ってもらえという。貞閑尼はおあんを縁者の娘と紹介して引き取った。貞閑尼が惚れ込んだのが国師で、播磨まで追ってきた。1年が経ち、貞閑尼に呼び出されたおあんは尼になる覚悟をしていた。灘屋の手代でおあんに好意を寄せていた東太がおかんの身代わりに囚われた後、行方が知れなくなった。ところが国師は東太も匿っていた。それを貞閑尼から聞かされ、しかも貞閑尼の生地丹波柏原に用心棒として東太と二人で向かうように言われた。辛夷の花の香を嗅いだおあんが、生まれてはじめて生きててよかったと思うと尼に言い、東太と2人で山道を歩く姿を思い浮かべた。

 

心なりけり

労咳を患った晋作の身の回りの世話をするおうのは、囚われの身となっていた望東尼が助け出されて下関に来るので、様子を見て来てほしいと晋作に言われて、言うとおりに動いて2人は再会した。おうのは相繁く尼の下を訪ねた。尼はおうのに、晋作の正妻まさに晋作を会わせるよう言った。晋作が言い出せない以上、晋作を好きなら、晋作の思いを組んで家族に会わせてやるのがおうのの務めだと諭した。おうのは説得されたことに深く後悔した。おまさの最初から最後まで感じのよい態度はおうのの癇に障った。尼はおうのを再び窘めた。がまんせねばと思う一方で、腸がひきちぎれそうだった。晋作は林家の離れへ移った。おうのはおまさがいる家には行かないと意地を張っていたが、おまさがおうのに会いに来て、見舞ってやってくれと言った。ためらっていると、おまさが自分がここに来るのにどれだけ不愉快な思いを吞み込んだか、それでも来た、あなたも行きなさいと言われて、漸く腰を上げた。晋作は骸骨のようだった。尼がかつて晋作に詠んだ歌「おもしろきこともなき世と思ひしは 花見ぬひまの心なりけり」をおうのに覚えているかと尋ねた。晋作は死んだ。おうのは訃報を聞いても駆けつけなかった。尼は自分の経験をおうのに伝えて今も胸のおさまりがつかない心情を吐露すると、おうのは葬儀に行く、行かんならん、これからずっと晋作さんのそばにおることにした、それがうちの、心、じゃき、といった。

 

作者は、あとがきで、本書は、江戸中期から幕末の女性たちの恋、それも自らの思いに忠実に生きられるようになる、尼になってからの話を描いたと説明している。それで全編に「尼」が登場するのか、と合点がいった。