1994年4月8日第1刷発行
目次
ヒロシマに加害の島が
暗黒のベールの内側に
大久野島・動員学徒の語り(岡田黎子)
毒ガス島戦跡探訪
いまなお残る傷痕
あとがき
・瀬戸内海の大久野島に戦時中、日本軍の最高機密拠点の毒ガス製造工場があった。国際法で禁じられている毒ガス作りのため機密保持に目を光らせていた。当時13歳の岡田黎子氏は動員学徒として駆り出され、そこで見たものを「語り絵」として描いた。
・大久野島・毒ガス資料館のある島の桟橋には、毒ガス製造で犠牲になった人、その障害で戦後に死亡した人々の慰霊碑がある。1989年10月時点で1662人。
・びらん性毒ガスの年間生産量は1200トンに及んだ。
・日本軍の毒ガス作戦は1937年7月に始まり、翌年から本格化した。公文書に残された記録から1938年8月から3か月に及んだ武漢作戦の中だけでも夥しい量の毒ガスが使用された。中国側の発表によると、たまたま発見されて処理されていないままになっている化学兵器は砲弾200万発、毒性化学剤100トン、放置された科学兵器の毒性で直接の犠牲者が2000人以上にのぼるとしている。
・忠海中学校では学校内に毒ガス資料館を作った。1992年の出来事だ。
被爆のヒロシマに、もう一つの顔があった。ヒロシマ・ナガサキ、東京大空襲だけでなく、大久野島も、過去のベールに閉ざしてはならない、との筆者のあとがきにある通りだと思う。不勉強だったが、こんな恐ろしい工場が国内にあったとは、知らなかった。