私の履歴書 奥村政雄(日本カーバイド工業社長) 経済人6

昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①幼年期に父の私塾で詩経など暗記

寺子屋式小学校から高小寄宿舎へ

③中学時代、夏目漱石に英語を習う

④東大時代、親友広田元首相の思い出

⑤日比谷の焼き打ち事件を目撃

⑥大蔵省から三菱地所へ移る

⑦小岩井農業長から本社総務部副長に

⑧日本で初めて三菱で定年制を実施

⑨査業部時代、中国で綿花改良に着手

⑩大正十年、日ソ通商協定の日本代表

カーバイドの道三十年

 

明治12年11月29日熊本生まれ。五高で漱石から英語を習ったが、英語そのものよりもシェイクスピアモンテクリスト伯ジャンバルジャンの話などをしてくれた。東京帝国大学法科大学の独法科に入学したのが明治34年9月。卒業後、高文に合格して大蔵省に入ったが、翌年には辞めて三菱合資に入ることになった。結婚後、岩手の小岩井農場長を命じられた。小岩井の名は、開拓した小野、岩崎、井上の姓の頭文字を取って名付けられた。数え年36歳で総務部副長になって東京に帰った年に第一次世界大戦が始まった。ドイツの研究を始めたのが三菱経済研究所の始まりだった。日本の民間企業として初めて定年制を実施した。55歳が遅速ない適当な退職時期と考えた。退職金制度も確立した。200か月分を支給するという規定を作った。大正14年、入社20年で理事になり、日ソ通商細目協定の日本代表に選ばれてモスクワに行った。法制審議会の商法改正主査委員を命じられ、答申案を作成した後、三菱をやめた。54歳だった。大同燐寸の社長になりマッチ工業をやり、日本カーバイド工業の社長もあとわずかで30年になる。酒により悟道に入ることが私の目標である。さかずき研究の成果はいずれ書物にして残しておきたい。(昭和37年日本カーバイド工業会長。40年同社相談役。41年5月27日死去)