お吉写真帳《上》 安部龍太郎

2016年12月10日発行

 

ヘダ号建造

豆州戸田村の船大工の虎吉は洋式帆船の研究を始め、塾を開いた韮山代官の江川坍庵を通じて川路左衛門尉から紹介状を貰い、下田に入港した全長60メートル近い巨大なロシア船ディアナ号に乗り込んだが、運悪く安政地震に見舞われた。修理を終えたディアナ号は下田を出港し戸田を目指す途中で舵が破損し、漂流した先のロシア人を村人たちは国禁を破って救おうとして救いの手を差し伸べた。虎吉は小型の洋式帆船を作るための御用掛に任命され、ディアナ号から持ち出した『海事集録』の付録にあったオプイト号の小型縦帆船の設計図を手本に設計が進められ、用材の調達も順調に進んだが、船体の外板を張る工程で洋式船と和船では縦に張るか横に張るかで大きな違いがあり問題が生じた。ある時、みかんの皮を見て縦張りのヒントを得た虎吉は竹ひごを張り合わせて型を取り問題を乗り切った。完成した日本初の洋式船は見事な均整を保って海に浮かび、虎吉は長崎の海軍伝習所の伝習生として加わるよう内命を受けた。

 

お吉写真帳

アメリカ総領事のハリスが侍妾を求め、下田の遊女の中でも人気のお吉に白羽の矢が立てられた。お吉が絵師の桜田久之助に寺に上がる前に今の姿を写し取ってほしいと頼んだ。お吉の働きが奏功したのか、下田協定が結ばれ、翌年の日米修好通商条約へとつながった。出来上がった絵にはお吉の命が吹き込まれておらず飾り物に過ぎないと感じた久之助は絵筆を捨てて写真師となることを決意し、横浜でアメリカ人商人ショイヤー家の下男として働き、来日したヒュースケンからカメラについて教えてもらう。ショイヤ―夫人アンナの協力を得て、来日した写真家ウィルソンからカメラ一式を風景スケッチと交換することで手に入れた。時代は銀板写真から湿板写真に移り、ヨードコロジオン剤の調合に苦しんだ久之助だったが、苦労の末に写真術を習得して野毛で写真店を開業した。下岡蓮杖と号し、写真が日本人に認知されると、店は長蛇の列が出来た。ある日6年ぶりにお吉が飛び込んできた。10枚を写真帖にして渡した。お吉の番傘には「MIYOZAKIROU」と記されていた。

 

適塾青春記

適塾の会頭の長与専斎は恋文を沙恵に渡したくても恥ずかしくて渡せず悶々とする日々を送っていた。洪庵は諭吉の次の塾頭になるべき専斎を心配して、諭吉に沙恵を連れ出させて専斎に心の内を告げさせたが、沙恵は事情があり好意に沿えないと答えた。コレラが猛威を振っていた。沙恵もコレラに罹り、専斎が治療に当たった。医師として最善を尽くし、沙恵は救われた。沙恵は縁談が既に決まっていたのが分かり、専斎は吹っ切れた。