木川田一隆(東京電力社長) 経済人13

昭和55年12月2日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷

 

河合栄治郎先生を師父に人道主義を知る

②東京電燈へ―職場で学んだ調和の精神

③営業所時代―対人関係に心をそそぐ

終戦―焼け跡に希望の灯もす使命感

⑤人間同士の誠意信じて争議解決に当たる

⑥電力再編成―自由主義の原則を主張

⑦九電力体制確立―松永翁の面目躍如

⑧営業部長に就任―企業の社会性を痛感

⑨釣り舟―すさんざ人心に和合の潮風

⑩中央電力協議会を設け広域運営に着手

⑪社長就任―心に誓った経営の近代化

⑫相互信頼の絆―忘れられぬ異国の友人達

 

明治32年8月23日福島県生まれ。東京大学卒業後、東京電燈株式会社に入社。後で分かったことだが、河合榮治郎先生を師父とし危険思想の持主として警戒されたらしかった。敗戦という事実に新たな出発点があるので、履歴書はこの時期から始めたい。入社以来10年間調査の仕事に就いた私は2年程現場で働いた後に本社に戻され若くして文書課長になり、秘書課長、企画課長を経験した。戦後直後は労働争議を担当し、電力会社の特性から企業の在り方について自由競争か独占か、国営か民営か、政府と企業との関係はどうかなど真剣に考えた。九電力体制の確立と東電人事は混乱を極めたが、私には営業部長の任務が与えられ、経営全体に気を配った立場を離れて営業の仕事に精を出した。そんな中経済同友会の代表幹事の役を引き受けざるを得なくなった。料金改定問題に苦悩した。昭和36年、菅会長と翁から社長になるよう仰せつけられた。社長就任の際に打ち出したのは「企業の体質改善」「投資効率、資金効率の向上」「サービルの向上」の3つ。東電もいつの間にか民間の電気事業としては米国にもない世界で一番大きい会社となった。社会的使命の重さに身が引き締まる。(昭和46年から51年まで東京電力会長。52年3月4日死去)