怒濤のごとく《二》 白石一郎

2013年6月10日発行

 

鄭芝龍が日本甲螺となり6年が経過した。田川福松(鄭森)は6歳になった。福松は家庭教師の黄仙遊も驚くほど記憶力が良かったが、体を鍛えることを優先させ花房権右衛門の道場で剣術を学んだ。ある日、福助は明国人の子供らから父鄭芝龍を裏切り者と呼ばれ、叔父の鄭芝鳳からその理由を聞いた。鄭芝龍は日本甲螺の部下と袂を分かち、明国政府の招撫に応じて政府の役人になり、福建省の海域に万を超える手下を従えていた。鄭芝龍は盗賊の群れを正規の軍隊へと変貌させ、名実ともに明国の海上王となろうとしていた。しばらくして黄仙遊は福松の学問を再開した。翌年鄭芝龍はおマツや福助らを迎えに末弟の鄭芝豹を送ったが、平戸松浦藩は家族の渡航を認めず、やむなく福松だけ渡航した。途中で海賊に襲われた船の唯一の生き残りの日本人を救った。島津才右衛門の息子だった。5年の月日が経過した。鄭芝龍は福建省泉州の南安県に城郭を築いていた。鄭森は勉強に励んでいた。鄭森の付き添いは日本から一緒に来た虎之助と途中で救った才兵衛だけだった。鄭森は近々行われる戦闘に加わりたいと申し出るが、却下された。鄭森は鄭氏一族の総帥となるためにはまず学問を修めるのが先決だった。鄭芝龍は息子の鄭森に科挙に合格し明国政府に仕えて貰いたかった。勉強は順調に進んだ。鄭森だけでなく才兵衛も天才だった。鄭森は県試、府試、院試を突破し、科挙の挑戦資格を得た。鄭芝龍は莫大な財産を築き、福建省都督となり飛虹将軍と呼ばれた。