南方熊楠 森羅万象の探究者 新藤悦子

2019年3月25日初版

 

8歳で105巻もある『和漢三才図絵』(日本で初めての百科事典で言える辞書)を文字・絵を3年がかりで写し取る。他にも明の『本草綱目』(薬物、博物学をまとめた)52巻や『大和本草』も。古本屋で立ち読みした『太平記』を暗記して家に帰ってから書き写したという話も。13歳で『動物学』を書き上げる。大学予備門では夏目漱石正岡子規秋山真之などそうそうたる顔ぶれが同窓生に。このころ、イギリス植物学者バークレーアメリカのカーティスと共同で6000点のキノコ(菌類)を集めて世界最初の標本集刊行。熊楠はこれを知って「僕は7000種のキノコを集めてやる」と決意(後に本当に実現してしまう)。

20歳でアメリカに渡り、24歳でキューバにも。25歳にはロンドンで大英博物館で勉強に励み『ロンドン抜書』ノート52冊に。『ネイチャー』に『東洋の星座』が掲載。孫文と知り合い、孫文が「海外逢知音(海外にて知音とあう)」(本当に分かり合える友)と熊楠のノートに書き残す。33歳で帰国し、故郷の和歌山へ。熊野の森を歩きまわる。また「植物や動物の関係はたがいに密接で、森羅万象は互いに関連しあっている。近ごろではエコロジーといって、この相互関係を研究する学問さえ出てきている」と手紙に書く(エコロジー生態学)という言葉を日本で初めて紹介している)。39歳で結婚。キノコ3500種を絵に「菌類図譜」を完成(絵のないものを合わせれば1万種も採取しているので、少年時代の目標を達成する)。

粘菌研究(動物になったり生物になったりする)にも取り組む。鎮守の森を守り、昭和4年には海蜘蛛10匹を捕まえ、神島で天皇に粘菌標本110点を献上して講義する。天皇が「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠まれる。

ロンドン時代では「ヘブライ語ペルシャ語トルコ語、インド語、チベット語を習得し、かの地へ旅に出たいと考えている。パレスチナやメッカを見て、ペルシャからは船でインドにわたり、チベットを目指す。イスラム教の国ではイスラム教徒に、インドではヒンドゥー教徒になって、チベットで僧になるつもりだ」と手紙に書く。また「因果と因果が作用して生まれるのが、縁である。今日の科学で、因果はわかるが、縁がわからぬ。この縁を研究するのが、われわれの任務だ」と土宜法龍宛に書く。柳田国男とも文通し往復書簡集として本になる。74歳で亡くなる。

まさに「博覧強記」の人でした。凄いです。