嶋田卓彌(蛇の目ミシン工業社長)私の履歴書 経済人8

昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①父は京で評判の“風流医者”

②妙な丁稚どん-むやみやたらに読書

③苦労が生み出す機転の数々

④ラシャ屋の手代となる

⑤“勇敢な女性”と結婚

⑥月掛け予約制で庶民へミシンを

⑦「蛇の目」誕生-すぐれた宣伝マン育てる

⑧国産愛用の波に乗って朝鮮に六十の分店

⑨リッカー創設-月掛け予約で意見対立-集団失業

⑩「蛇の目」に復帰、再建を図る

⑪貧困は大実業家への道

 

・1901年12月1日生まれ。12歳の時、医師の父が病死した。父は生前イギリス式の教育を行い、毎日日記を書かせ、自分の事は自分でやらせ、科学的合理主義教育をした。進学組のトップにいたが、卒業を待たず父の死で丁稚奉公に出た。17歳で地方に配属され、消灯後は自然科学書宇宙論、昆虫記、文学書を読み、江戸文学へと傾倒し、同時に左翼本もむさぼり読んだ。ストライキを決行しようとした矢先、失敗した。エスペラント語を勉強し世界各国に友人を作った。京都のラシャ問屋に3年いた後、独立して卓彌商店というラシャの切り売り屋を始めた。結核療養のために週に2日しか働かず毛筆の勉強をした。結婚後、父から残された精神的遺産である子宝日記を、今度は娘のために記しはじめた。上京して井上英語講義録の経営を手伝うことにし、広告の効果を図り、蓄音機の特別提供を始めた。ここで①全国規模の広告に対する統計調査②蓄音機の大量発注によるコスト低下③善意の大衆相手の月賦は貸し倒れが出るものではないことを学んだ。次ににんくに栄養剤「ヒルソ本舗」の宣伝企画を手掛けた。パインミシン(蛇の目の前身)から宣伝企画顧問として招かれ、広告経費を30分の1程度に引き下げることに成功した。東洋初の大量生産工場の建設に踏み切り、商標を蛇の目とし、コピーライターを育成した。宣伝企画部長として入社したが戦局が激しくなり、蛇の目撤退作戦に入り、勤め人履歴は6年で終えた。戦前戦後は理化工の常務となり、その後新会社のリッカーミシンを立ち上げ、蛇の目の重役全員が揃った。もっとも内部で意見対立が生じ、皆と一緒に集団退職し、11人がまとめて蛇の目ミシンに復帰した。借金を全額返済し、シンガー上陸阻止策を打ち立てた。国内産98%、アメリカ市場60%を押さえたのは日本だけであることを識者には知ってもらいたい。私たちの経営では、給与改定の優先順は“セールス、工員→一般社員→高級社員”これらが一通り行き届いた後でなければ役員報酬は改めさせない。11人各自が住居を持ち電話を引くまでボロ借家で暮らし、皆がそれを果たしたのを見届けて最後に自分の家を建築した。(昭和43年より蛇の目ミシン工業相談役)