真田騒動《上》恩田木工 池波正太郎

2017年6月10日発行

 

豊臣方についた真田昌行、幸村が次々と倒れる中、兄の信幸だけは家康方につき真田家を守った。家康亡き後、信幸は上田から信濃松代に国替えを申し渡され、藩祖信幸は善政を行い、家督を信政にゆずった。が信政が急死し、幕府は影を動いたが、暴君型の信利でなく沼田派の右衛門佐が跡目を継いだ。信幸93歳のことだった。51歳の真田信弘と養父真田伊豆守幸道64歳は従兄弟同士だった。松代藩の財政は困窮し、3年前幕府から1万両借り出しを成功させた駒井理右衛門への評価は一変した。幸道の政治が悪かったわけではない。幕府が次々と課役を押し付け、力を削いだためだった。3代藩主真田幸道が亡くなり、信弘が藩主の座についた時は完全に財政難に陥っていた。信弘は死期を悟るや三男信安のことを駒井と大沢源七郎に任せた。5代藩主信安は原八郎五郎を寵愛し家臣に抜擢し、折からの大水害の復旧に当たらせた。信安は幕府より1万五千両を借り入れることに成功し、治水工事を成功に収めたことで、好き勝手なことを始めた。信安は享楽に溺れ、躰を壊し重病となり、13歳の豊松では家督相続が難しかった。このため家老恩田民親が先頭に立ち、信安の死により豊松が後をつぎ、真田幸弘となって真田伊豆守となり、家老恩田民親が執政として藩政改革を行って成功を収めた。