真田騒動《下》恩田木工 池波正太郎

2017年6月10日発行

 

恩田木工は16歳から18歳まで四代信弘の近習をつとめ、治水工事を行いたい安信と原八郎五郎の意見に他の重役方が反対しても賛成し、幕府から借財して工事は2年で完成した。原は家老に取り立てられ、信安の放蕩・享楽に追従するようになると、木工は不安を覚えた。小林郡助を斬った井上半蔵にお咎めはなく、郡助の妹が自害した。郡助の妹が残した遺書が木工に渡り、原八郎五郎は御勝手係を解かれ、代わって赤穂藩浪人の田村半右衛門が勝手係として召し抱えられ、半右兵衛門は倹約するよう見せかけたが、実質は自らの懐に入れた。

半右衛門は農民の反発を招いて一揆を起こされて失脚した。豊松家督の許可がおり、信安は安心して息を引き取った。豊松は幸弘と名乗り、木工は思いもかけず勝手方御用兼帯に任ぜられ藩政の改革を任されることになった。執政を引き受けた木工は親族や屋敷の家来を呼び寄せ、質素倹約を励行するので義絶を申し入れると、誰もが木工に協力することで一致した。賄賂禁止、給与全額支給、年貢の月賦納付法施行など、藩の綱紀を清潔で明るく折り目正しいものに変えようとした。原が罪を赦された。藩主が恨みを残さぬためだという。