杖下に死す《下》 北方謙三

2013年6月10日発行

 

 宇津木の実家は彦根藩だった。井伊藩の重役の弟にあたる。利之は、これで宇津木、吉田、矢部定謙、井伊大老と繋がった。薩摩の武士が利之と相まみえた。互いに互角の勝負でやはりともに傷を負った。内山が利之を訪ねて洗心洞が施行札を配り始めたこと、西奉行がようやく間もなく到着することを伝えてきた。大井は平八郎が民を糾合し町奉行を制圧し大阪城を囲むと格之助に言外に伝えた(第5章 如月の剣)。

 洗心洞が配った施行札で1万人は集まる。格之助が利之に覚悟し切った笑顔で挨拶に来た。平八郎に岡田や宇津木が会いに来ても格之助は夕刻までは会わせなかった。西町新奉行と吉田が密談していると内山が利之に伝えてきた。明日予定の西奉行の市中巡見が中止になった。平八郎が決起した。大砲が隣の家に打ち込まれた。が決起した人数が三百程度で少ない。檄文も手に入った。大坂の北船場の半分以上は焼けたが、決起の鎮圧にそれ程時がかかると思えなかった。宇津木が斬られた後に決起が始まったようだった。平八郎の行方が知れなかった。決起が始まってもすぐに鎮圧せず奉行の力で動かし難い商人は焼いてしまい、その後で制圧したのだとすれば、平八郎は跡部の、そして幕府中枢にみすみす利用されただけだった。平八郎は大名を大正にした無尽を掴んでいた。跡部は平八郎を追っていた。間宮は黒い荒野を見て何もかもあやふやなのだ、その中で人の欲だけが形を持つ、それがこんな黒い荒野を作ったと言い、大井をみておけ、いずれ捕縛されるが放免されると言った。そこから考えよと。格之助から、杖下に死すとも抱いた思いはやり遂げたいと書いた手紙が届いた。利之は仙蔵を連れて出掛けていった(第6章 四海困窮)。

 洗心洞の門弟が次々に捕まった。御庭番に利之が尾行された。宇津木を斬った大井が京でようやく捕縛された。火を放ったのも大井だった。平八郎親子は自害した。大井の父は義絶していたので不問に付され大井は江戸に護送されるという。利之は大井が京まで船で護送されると聞き、護送する者たちに襲いかかった。そこに利之の父が現れ、本物の大井は江戸に連れていかれ、替え玉の大井が江戸に護送されていった。平八郎が調べた大坂での不正の事実が符牒で書かれたのを解読できるのは大井だけだったからだ。平八郎は大老を信じすぎた。大老は縁者を一人送り込んだだけで決起はどうでもよかった。決起はむしろ水野に必要で、自らの不正を大坂の町とともに焼き消したかった。父は平八郎は利用されただけだ、民を救うなどということはそういう抗争を全て勝ち抜いた者だけがなし得ると語った。利之は刀を捨て料理人となった(第7章 杖下)。

 

末國善己氏の巻末の「解説-冷静なる観察者」によると、利之は架空の存在だが、その父・村垣定行は勘定奉行を務めた村垣範行をモデルにしており、利之に官僚型の男と激しく批判されている異腹の弟・村垣範正は実在の人物である。・・こうした虚構と現実を織り交ぜる手法が物語に迫真力を与えているとある。そして、北方は、必ずしも平八郎を正義の味方にはしていない、それどころか、あえて第三者の視点から平八郎の活動を描くことで、乱の背後に蠢く政治的な陰謀や、平八郎の進める改革運動の限界までを浮かび上がらせている、とする。そして、北方が“正義”を信じて突っ走る格之助を羨ましく思いながらも、自らは決して熱くならない男として利之を造形したのは、ファナティックに“正義”を語ることへの違和感が込められているのではないだろうか、言葉よりも実践を重視する『知行合一』を掲げて政治運動を進めた大塩平八郎と、最後まで観察者に徹した利之を対比することで、平八郎の改革運動のネガティブな面までを明らかにした本書は、熱しやすく冷めやすいといわれる日本人へ、冷静に判断することの重要性を説くメッセージになっているとも。

なるほど、俊逸の解説である。