天翔ける 葉室麟

2017年12月26日初版発行 2018年1月25日再版発行

 

帯封「坂本龍馬西郷隆盛も信頼を寄たせ幕末四賢侯の一人、松平春嶽を描く歴史長編! この男無くして、明治維新は無かった! 追悼:葉室麟さん 勇気と感動をありがとうございました」「文久3年(1863)。北陸の要・越前福井藩の家中は異様な緊迫感に包まれていた。京の尊攘派激徒を鎮めるべく、兵を挙げて上洛すべきか否か。重大な決断を迫られた前藩主・松平春嶽が思案をしている折、幕府の軍艦奉行並・勝海舟の使いが来ているとの報せがあった。使いは浪人体のむさくるしい男だという。名は、坂本龍馬。彼の依頼を即決した上で、上洛についての意見を聞いた春嶽は―。 旧幕府にあって政権を担当し、新政府にあっても中枢の要職に就いた唯一の男、松平春嶽。日本を守るため、激動の時代を駆け抜けた春嶽の生涯を描いた歴史長編!」

 

松平春嶽と側近の横井小楠坂本龍馬と会談する場面が冒頭に登場する。大老井伊直弼の「安政の大獄」の折、将軍継嗣問題に介入したとされて春嶽の懐刀でもあった橋本左内は26歳の若さで斬首され、福井藩として挙兵上洛するか決めかねていた状況について、龍馬が京都での長州藩との戦いは薩摩に任せた方が良いと述べたことで、内心を見透かされたのではないかとひやりとした春嶽だったが、この会談で龍馬を一目置くことになる。春嶽は挙兵上洛策に同調する重臣たちを粛清する藩の人事を断行すると、家臣中根靭負(ゆきえ)相手に藩主になった少年の頃を思い出す。11歳で越前松平家を継いで藩主となり、藩財政を改革するため自ら粗食に努め書を学び、16歳でお国入りの前に水戸斉昭に会い藩主の心得を学び、18歳で世子島津斉彬と親交を結んだ。27歳の老中阿部正弘や斉彬とも来るべき国難を乗り切るために度々会談した。西洋大砲の製造を学ばせ、ペリー艦隊との力の差を知ると今後10年は軍備一途にすべしと訓告する。春嶽と同じ年代で1つ上の山内容堂が唯一の友だった。容堂から自分には吉田東洋、水戸様には藤田東湖戸田蓬軒がある、春嶽も諸葛孔明の如き大才を陪臣にせよ、さすれば天翔けることができると言われ、横井小楠の名がよぎった。阿部が病没し、堀田正睦老中首座に就任したが、能吏であるものの阿部のように根回しをする政治手腕はない。福井から24歳の橋本左内と会い予想以上に器量に陪臣として用いることを決断、春嶽は大名志士として動き出し、左内を京に送り出して将軍継嗣を慶喜とする工作を始める一方で、井伊直弼は腹心の長野主膳を使って朝廷工作を行う。が直助が大老就任し、一橋派は敗北した。が直弼が違勅して条約締結に踏み切ったことの責任を追及しても直弼は開き直るばかりで、かえって春嶽は隠居を命じられる。気落ちした春嶽に左内は斉彬が挙兵上洛する予定であると聞かされ励ましたが、斉彬が急逝してしまった。左内も処刑された頃、横井小楠が福井入りした。小楠は、斉昭に引きずられれば道を過つ危険があり将軍継嗣工作の頓挫はやむを得ないと判断し、春嶽には世俗を超えた天翔ける道を行ってもらう必要があると冷徹に考えていた。春嶽幽居して3年、桜田門外の変が起き、小楠と初めて会う。イギリスの政治を学び日本に必要なのは二院制の議会構想だと伝えると小楠は大いに頷き国事への出番は近いという。久光は斉彬の真似をして春嶽を頼るが、春嶽は天下国家を思っての行動ではない久光に白けてしまう。幕府は慶喜を将軍後見人に、春嶽を政事総裁職に就任させ、春嶽は再登場することを決断する。春嶽は京都守護職山内容堂を、海軍創設に当たっては勝海舟を登用。特に勝は各藩が沿岸警備を負担するのではなく諸侯と幕府が合体して行わなければならないと考えていた。ここで春嶽に難問が一つ降りかかる。朝廷と融和して国難に当たろうとする春嶽は、孝明天皇の攘夷督促の勅使を派遣せよとの意思を無視できなかった。春嶽は大政奉還策を慶喜に説くが慶喜は徳川という私を捨てきれない。小楠が越前で謹慎せざるを得なくなり、春嶽に挨拶に向かうと、大殿がなさねばならないのは破私立公の旗を上げること、私を捨て公に立つ者だけがこの国の将来を切り開けると言い遺す。春嶽は辞職し福井に戻ると、朝廷から攘夷派を一掃する8月18日政変が起こる。朝廷は、慶喜、春嶽、容保、容堂、伊達宗城を参与とし、遅れて久光を加えた。が慶喜が久光を奸謀呼ばわりし、参与会議は敢え無く崩壊。その直後に池田屋事件が起こり、これに激怒した長州藩が軍勢を上洛させるも敗れる。このタイミングで龍馬は長州と薩摩に手を握らせる薩長同盟を思いつき仲立ちするために動き出す。家茂が21歳で病没し、将軍は慶喜にとなるはずだったが慶喜は応じず春嶽が説得に向かうと、フランスの援助を仰いで大統領になりたいと言い出す。イギリスのパークスはフランスの動きを察知して日本は天皇を中心とする諸藩連合政権が相応しいと薩摩に踏み込み、薩摩が幕府を見限ったのも理解する春嶽。慶喜が将軍に収まると、直後に孝明天皇崩御し、明治天皇践祚(せんそ)した。後藤象二郎大政奉還論を龍馬から示されて自らの策だといい、そうであれば、慶喜は春嶽を警戒せずとも良くなると踏み、大政奉還策に魅力を感じ始め、それならば大政奉還して諸侯会議の筆頭として発言すれば大統領になることができる、そのためには薩摩と長州を潰すことを計画し、10月12日、大政奉還の趣旨が読み上げられ、13日午後には薩摩、土佐、広島、宇和島藩の家臣6人が残る中で、慶喜大政奉還について雄弁に語り、14日には大政奉還の上奏文を提出し翌15日朝廷は勅許した。ここに江戸幕府は265年で滅んだ。龍馬は福井の三岡八郎に新政府綱領八策を示し、盟主が空欄になっている理由を説明した。慶喜大政奉還は春嶽の罠に嵌ったと誤解し坂本龍馬を邪魔扱いすると、龍馬は京都見回組により殺害された。久光、西郷、大久保はそれぞれ別の思惑から徳川排除の結論を抱き新政権をつくる思惑を持ち、小御所会議で慶喜が呼ばれていないことに容堂と春嶽は異を唱えた。徳川こそ旧怨を捨て公についたのであれば、薩摩もそうすべきであると。だが新政府発足と同時に分裂を回避するためには春嶽と容堂は引き、慶喜に辞官納地の決定を伝えた。会議後、春嶽は西郷に徳川をそこまで憎む理由を問うと、西郷は腐った根は断たねばならぬ、という。一旦は春嶽の巻き返しによる徳川も含めた雄藩連合による政の運営の流れが出来かけたが、鳥羽伏見の戦い戊辰戦争に流れて時勢は一気に動いていく。小楠は春嶽に即今の急務を建言し、三岡は5カ条を起草し、これに木戸が加筆して五カ条の御誓文と呼ばれるようになる。明治2年正月、小楠は根拠なき言いがかりで殺害される。そして明治維新尊攘派による革命であったかのように喧伝されていった。春嶽は民部卿、大蔵卿を兼職し、旧幕府にあっても新政府にあっても中枢の要職に就いた唯一人の人物だった。明治4年には春嶽は早々に職を辞し勇姫と晩年を過ごす。勇姫に熊本の実家から手紙が届き、西郷隆盛が最期まで持っていたカバンの中には橋本左内の手紙が入っていたと知り、春嶽は感じ入る。明治23年、春嶽逝去、享年63歳だった。

辞世の和歌「なき数によしやいるとも天翔り御代を守らむ皇國(すめぐに)のため」