阿寒に果つ《上》 渡辺淳一

1997年10月20日発行

 

巻末の小松伸六の解説によると、純子に実在したモデルがあったと思われるが、この場合には、純子のモデル考は不必要。渡辺氏は・・こうした氏の略歴を考えると、〈私〉には、やはり作者の青春前期の心情がこめられていると思う、とあったが、どうやら実在のモデルはいたようだ。ネットで探すと、2006年の朝日新聞に、「少女の名は加清純子。15歳で北海道展に入選。中央の女流画家展にも出品し、「天才少女画家」の名をほしいままにした。地元紙は「画壇のホープ」と書きたてた。才気ほとばしる早熟の「赤」。髪は茶色に染め、高校にもあまり行かず、深夜まで喫茶店や居酒屋に入り浸った。気鋭の画家やダンディーな新聞記者ら、複数の男性と浮名を流した。大人びた不良の「赤」。肌は北国の少女の中でも抜きんでて白く、結核を患っているとのうわさだった。当時の同級生は「妖精みたいでした」と語る。厳冬の校庭で雪像を制作した際、完成間近いロダンの「接吻」像に血を吐いた。つややかな雪像を汚す、鮮血の「赤」。猫のように捕らえどころがなくて、小悪魔的。付き合った男たちは焦燥を募らせた。××年1月の深夜、男たちの家の前に、一輪のカーネーションを残して失跡した。雪道にひっそりと置かれた、謎めいた花の「赤」。雪解けの4月、純子は阿寒湖を見下ろす釧北峠で凍死体となって発見された。息をのむほどきれいな死に顔。睡眠薬の空き箱が近くに落ちており、警察は自殺と断定した。白銀の原野に横たわったコートの痛ましい「赤」。遺書はなく、純子がなぜ命を絶ったのかは、わからない。彼女の衝撃的な死は、付き合った男たちにやりきれない思いを刻み込んだ。以下省略」とあるらしい。しかも渡辺淳一氏に「雪の阿寒」というエッセイがあるらしく(『マイセンチメンタル・ジャーニイ』)、「1952年1月25日、一人の少女が雪の阿寒の果てに消えた。少女の名前は加清純子。このとき高校三年生で十八歳。あまりに若すぎる少女の失踪であったが、それから二ヵ月半後の四月の初め、少女は雪の中から死体となって現れた…わたしの著書、『阿寒に果つ』の…モデルは、いまから40数年前に雪の阿寒で命を絶った加清純子その人であり、この本の「若き作家の章」に出てくる「俊一」という少年は、わたし自身の高校生のときの実像である。」「高校三年の夏が始まる頃、わたしたちのあいだは完全に終っていた…受験勉強をしていた一月の半ば、深夜一時すぎ、わたしはふと肌寒さを覚えて目覚めた。受験勉強に疲れて仮眠していたのだが、振り返ると、うしろの窓がかすかに開いている。咄嗟に、わたしは純子が訪ねてきたことを知った…驚いたわたしはすぐ窓を開けてあたりを見廻したが、純子の姿はなく、かわりに窓の下まで積もった雪の上に、赤いカーネーションが一輪おかれていた…翌朝、学校に行くや、純子と親しい友人に、彼女の居場所をきいた。「純子は今日一番の列車で阿寒へ行くといっていたから、もういないと思うわ」…彼女は釧路へ行き、そこで数日過ごしてから、一人で雪の阿寒に向った。ここで雄阿寒ホテルに二泊したあと、純子は雪が晴れるのを待って、スケッチに行くと言って、阿寒と北見を結ぶ釧北峠の方向へ歩いて行った…二ヵ月半後、純子の死体は阿寒湖を見下ろす釧北峠に近い雪の斜面で、発見された。四月に入り、雪深い阿寒にもようやく春の陽ざしが訪れるころ、純子は赤いコートを着たまま雪の中から現れた…純子はなぜ死んだのか。」とのことである

https://ameblo.jp/dyodiary/entry-10446533534.html

 

第1章 若き作家の章

著者が出来の良い高校生の時に真面目でお堅い著者の誕生日を祝いたいという純子の手紙がきっかけとなり、高校生同士付き合って純愛の関係が続き(とは言っても図書館で遅くに二人切りで逢瀬を重ね、その度に接吻を繰り返していた)、修学旅行で東京の旅館に二人だけで泊まったところがちょっとしたハイライトなのだが、臆病で体の関係にまでは発展せず、著者が受験勉強に力を入れて関係が切れた後、純子がカーネーションを残して行方不明になり阿寒の地で睡眠薬で自殺して美しい姿で発見された。

第2章 ある画家の章

純子の絵の師匠は妻子ある画家たったが、純子がロミオとジュリエットを描くなら処女ではダメだと言って体の関係を持ち、離婚して純子と結婚することも考えるが、束縛されるのを嫌う純子が著者と付き合ったり、いろんな男性とのことを話すのを聞かされて暴力を振う。純子は師匠に冬の阿寒に行くことを考えていると言ったのを最後に行方不明となった。