昭和58年12月2日1版1刷
①図画だけが得意の学科だった少年時代
②絵に専心する決意難く梶田塾の内弟子に
③初出品で入賞-青邨の雅号をもらう
④第1回文展-自信の作も見事落選
⑤後援者原氏のこと。二人の先輩のこと
⑥教えを受けた日本画壇三師の思い出
⑦懸命の看病空しく恩師半子先生を失う
⑧欧州へ留学-「女史箴図」の模写に苦心
⑨斗酒を辞さなかった酒豪観山先生の死
⑩苦心の屏風画「唐獅子」を宮中に献上
⑪功績を認められ文化勲章拝受の栄に浴す
⑫法隆寺壁画再現-仏の真の姿を写す
・明治18年1月27日岐阜県生まれ。中学で血痰が出たので静岡県に転地して療養した。再び上京して尾崎紅葉さんから紹介された人気作家の梶田半古先生の入門が許された。国学院大学の聴講生にしてもらった。明治37年の日本美術院日本絵画協会共済会展には源氏物語から取材した「夕顔」を出品し1等褒状を受けた。新聞にさし絵を依頼されるようになったが、さし絵に熱は入らなかった。明治40年東京府勧業博覧会に出品した「御輿振」は三等賞牌を受け好評を受けた。明治41年には国画玉成会が開かれ、「囚われたる重衡」は三等首席の賞を受けた。同県のよしみで目をかけてくれた後援者原富太郎さんは芸術に広く理解を持っていた。日本美術院の留学生として1年の予定で渡欧した。昭和4年に第16回院展に「洞窟の頼朝」を出品すると朝日文化賞に選ばれた。東京芸術大学日本画主任教授という辞令を貰ったのが昭和26年12月。(昭和52年12月27日死去)