昭和58年12月2日1版1刷
①初仕事は講談雑誌のさし絵
②原稿料は湯島芸者につぎ込む
③震災後関西に行きプラトン社にはいる
④新聞小説のさし絵担当など幸運つかむ
⑤図案家に弟子入りした少年時代のこと
⑥三十歳ごろ、さし絵で一生過ごす気に
⑦戦時色強まり華麗な画風が困難に
⑧戦中戦後の人心の定まりなさに困惑
⑨混乱した世情-人の親切で家をもつ
⑩乱れた生活、病のからだ、絵もすさむ
⑪寒夜に四時間以上も女を待つことなど
⑫「女性修業」から「人生修業」に
・明治34年6月8日生まれ、田原尋常小学校卒。浅草生まれで京都へ移り、従兄の延さんの家に居候している時、木版彫り師吉田の六さんから挿絵を描いたらと言われ、博文館から発行されていた講談雑誌に描くと金が自由になり遊里通いを覚えた。関東大震災で東京が焼け野原になったので大阪に誘われプラトン社に入社した。「日輪」「鳴門秘帖」「赤穂浪士」が名作だったお陰で時の勢いに便乗した。友禅図案家、印刷用図案家の下で修業した後、毎日新聞社に入社。大正天皇崩御後、依願退職し、『オール読物』の表紙の仕事を手掛けた。戦後は仕事が増え、5人の雑誌社の人を前に、一度に五枚の表紙絵を描いたこともある。首相官邸に呼ばれて即席で墨絵を書いたこともある。(昭和49年2月19日死去)